精神病者監護法下の「精神病者」対策の検証
-内務省の「院外保護」構想分析-
○ 金城学院大学 宇都宮 みのり (会員番号4372)
キーワード: 《精神病者監護法》 《精神病院法》 《院外保護》
本報告は、精神障害のある人に関する日本で最初の法律である精神病者監護法(明33.3.10法38)の施行後に生じた諸問題が、精神病院法(大8.3.27法25)成立に収斂する過程を整理し、「精神病者」対策に関する内務省の認識を明らかにすることを目的とする。
第二次世界大戦前の精神障害のある人に関する法律には、精神病者監護法(以下「監護法」)と精神病院法があり、この二法は精神衛生法(昭25.5.1法123)成立に伴い廃止となる。精神衛生法は、精神保健法への改正・改題(平2.9.26法98)を経て、現行法「精神保健及び精神障害者福祉に関する法律」(平7.5.19法94)につながる。これまでに報告者は、監護法の時代に形成された精神障害のある人に対する処遇形態が戦後にも継承され、現代の精神障害のある人に関する諸問題の源流となっているという問題意識から、主に監護法の成立過程を検証してきた。その結果、①監護法の理念は監護義務者の管理をすることによる「身体及び人権の保護」にあり、②それを可能にする行政作用には「権威」と「撫愛」がある(後藤1889)が、③いまだ社会が未熟であるため、行政警察の「権威」による監護義務者の監視体制を整備する必要があったことを明らかにしてきた。(宇都宮2007、2009)。
監護法成立の意義は、①精神障害のある人の「保護」を理念とし、②その責任の所在を明らかにし、③不当な人権侵害を排除し、④監置の適正を図ったという点にある。しかし①「監護」概念の統一性が図られず、②治療保護の視点が欠落している上に、③身体保護の具体的方策が明文化されていない等の立法上の問題を残した。本報告では、その立法上の問題がその運用上いかなる問題を生起したか、それが精神病院法成立へ向けた動きとしていかに具体化したか、内務省が精神病者対策をいかに構想していたかを明らかにしたい。
これまでの研究成果を踏まえ、『中央衛生会年報』『衛生局年報』『公文類聚』『帝国議会議事録』のほか、必要な史資料をもとに、上記目的のための研究を進める。
3.倫理的配慮日本社会福祉学会の「研究倫理指針」に従って研究を推進する。研究に用いる史資料は原典にあたり、当日配布資料に出典を明示する。また、史資料には、現代的価値観からすると不適切あるいは差別的な用語があるが、本報告においては歴史的表現として使用する。
4.研 究 結 果1)監護法の運用状況及びその問題点
「精神病者調査票様式」(明42.12.28内令27)による精神病者の基礎統計を収集・分析した。精神病者は、明治38年23,931人から昭和10年83,365人へと3.5倍、人口1万人に対する割合は2.44倍の増加を示す。精神病院法成立後の大正10年でも、同法による入院2,209人、監護法による監置6,099人、仮監置53人、監置を要せざる者42,530人である(衛生局1921)。このように大部分が家庭で監置あるいは放置されている状況にある。その具体的な私宅監置の実況は、精神医学者呉秀三及び樫田五郎が調査(呉・樫田1918)した。
2)精神病院法の成立に向けた動きの出現
上記の統計および調査結果をもとにした、保健衛生調査会や日本神経学会の働きかけもあり、精神病院法が成立する。その成立にむけた一連の動き(「官公立精神病院設置ノ関スル建議」(明44.3.23)、「精神病者取締ニ関スル質問趣意書」(大7.3.22)、「精神病院法制定に関する件」(大8.1.16)等)から同法の趣旨を検討する。
3)精神病者対策に対する内務省の認識
内務省衛生局の高野六郎は、上記統計上の「監置を要せざる者」に含まれる精神病者の多くは「要せざる」のでなく「及ばざる」者と見るべきであると、精神病者収容施設の不足を指摘した(高野1934)。同年、愛媛県唯一の脳病院院長の持田治郎は、「都会と田舎の異なる点は私宅監置である。医師が精神病と云ふ診断書を書けば監置出来る法律は、精神病者を見殺しにしている」(持田1934)と怒りを表す。内務省も精神科医も、施設不足については共通の認識である。ただし、内務省による統計(警察調査)結果は、医学的診断によるものではないため正確な数字ではないと、呉は精神病者総数を13~4万人と見積もり、1902年、『医海時報』に「全国至る処に一つの癲狂者を収容する公立病院もなく、政府及び各自治体は患者を一私人に委ねて顧みず、いかなる都市にも癲狂者を入れる設備なきはそも何たることか」と喝破した(精神医療史研究会1964)。しかし高野は、精神病者対策にかける費用は莫大で、「斯くの如き莫大な費用を投じている衛生施設は他に類が無く、現在では結核予防費の如きも之に比すれば微々たるもの」と分析する(高野1934)。私宅監置を鋭く非難する精神科医に対し、内務省高野は収容施設増設の必要とともに「院外保護」を重視しており、また同じく内務省の青木延春も、「私宅監置は我国独特の院外施設で、欧米のそれを遥かに凌駕する家庭看護となる」という論を展開する(青木1937)。このように明治中後期から大正、昭和初めにかけての精神病者対策には立場による意見の食い違いが生じていた。当時の精神科医による私宅監置批判は先行研究により実証されているため、本報告では特に内務省の「院外保護」構想を分析する。
(注) 本報告は、戦前の時代的認識を理解しやすくするため「元号」を用いることとする。
(1) 青木延春(1937)「私宅監置ノ実情ニ就イテ」『精神神経学雑誌』41(11)、pp.1085-109.
(2) 宇都宮みのり(2007)「精神病者監護法成立前の精神障碍者対策」『東海女子大学紀要』(26)61-84.
宇都宮みのり(2009)「精神病者監護法案提出に至る要因に関する研究」『社会事業史研究』(36)109-122.
(3) 『衛生局年報』第1冊から第14冊(明治44年から大正13年)
(4) 呉秀三・樫田五郎(2000(原版は『東京医事雑誌』第2087号1918)『精神病者私宅監置ノ実情及ビ其統計
的観察』創造出版
(5) 後藤新平(1889)『国家衛生原理』英蘭堂
(5) 精神医療史研究会(1964)『精神衛生法をめぐる諸問題』松沢病院医局内
(6) 高野六郎(1934)「精神病者に対する施設の概況」『精神衛生』1(7)、pp.1-14.