乳幼児健診の起源と乳幼児保護事業の展開
-大阪児童愛護連盟の「赤んぼう審査会」の展開と乳幼児保護運動-
○ 近畿医療福祉大学 和田典子 (会員番号5640)
キーワード: 《歴史》 《乳幼児健診》 《乳幼児保護》
少子高齢社会に於いて,次代を担う子どもの問題は,さまざまな方面から議論されている.中でも乳幼児健診は,乳幼児の疾病の早期発見,育児相談や家族支援の出発点として重要な役目を果たしている.
発表者は乳幼児保護・児童愛護運動の歴史を調査研究しており,同学会発表で大正期の大阪の乳幼児保護施策や,志賀志那人の児童保護施策に着目して発表してきた.
本発表では,乳幼児健診の起源となった大阪児童愛護連盟主催の「赤んぼう審査会」が,「乳幼児健診」へと展開していく過程について述べる.
研究の方法は,大阪児童愛護連盟機関誌『子供の世紀』の通覧,生地賢(1927)『赤ん坊審査会ノ統計的観察』,大久保直穆・三杉義利(奥付なしのため不明:乳幼児保護基本的調査は1917~1926)『乳幼児保護指針』,大阪社会福祉協議会(1955)『大阪府社会事業史』,志賀志那人・三田谷啓・高尾亮雄・山桝儀重・大久保直穆らの著述の読み取りによる.
3.倫理的配慮語句の使用に関して配慮している.
4.研 究 結 果 大阪で展開された先進的な社会事業を背景に,大阪市立北市民館(志賀志那人館長)に本拠地を置く大阪児童愛護連盟が大正10年に設立され,今日の児童の福祉施策の起源ともなった様々な運動を展開した.本協会は,志賀志那人・三田谷啓・山桝儀重・高尾亮雄らを中心に,大阪市立産院・乳児院の医師らを加えて結成された.1921(大正10)年日本最初の児童愛護宣伝デーを挙行し,1923(大正12)年4月13・14・15日には,5月の児童愛護宣伝デーに先立ち「第一回大阪乳幼児愛護宣伝デー」を挙行した.
当時,産婆による出産をしていた人々は,病気以外で医者に子どもの診察をして貰うことなど思いもよらないことであった.そこで,2歳以下の健康な乳幼児に健康診断を受けさせる工夫として,大阪市立北市民館で,市民館・産院・乳児院の共催で「市民館赤坊展覧会」が開催され,一年を空けて1924年9月に大阪児童愛護連盟主催の「赤んぼう審査会」が会場を近代文明の象徴である百貨店(三越)に移して開催され,人気を博した.第4回赤坊審査会「審査会表彰式次第」 には,乳幼児死亡率が高いことを述べた後「本会茲ニ鑑ミル所アリ一般乳幼児教育ノ状況ヲ知リ、育児ノ任アル一般家庭婦人ヲ指導シ且ツ育児知識ノ育児知識ノ普及ヲ図ル一助トシテ、曩ニ市立市民館ニ於イテ第一回乳幼児審査会ヲ開催シ相當ノ成果ヲ挙ゲシ」と,記されている.この文から,①一般家庭婦人の育児知識を向上させる.②市民館開催のものを第1回と見なし連続した行事であると位置づけている.③相当の成果を上げている.という3点が読み取れる.
①では,従来の社会事業では達成できなかった,育児の社会化が目指されていることがわかる.当時,大正デモクラシーを背景に台頭してきた教育熱心な一般の人々をも巻き込んで運動を展開しようとした意図がある.『大阪社会事業史』にも「大阪市に於ける初の試みとして一般の人々にも非常に興味と期待を集めた」とあり,一般の人の参加もあったようである.大盛況であったという「大阪市民館赤坊展覧会」によって,元気な赤ん坊も健康診断を受けるということが市民館周辺の人々にも周知され,市民館内の健康診断所にも足を運ぶ人が増えた.その結果,3人に1人の割合で死亡するという悲惨な現状であった大阪の乳児死亡率も,他の乳幼児保護施策との相乗効果もあり,100人に対し大正7年では,全国平均18.9,大阪25.7,大正5~9年の平均が船場18.39,豊崎33.02に減少してきた.
大阪愛護連盟主事で機関誌『子供の世紀』編集人である伊藤悌二の奔走により,「赤んぼう審査会」は瞬く間に広がり,神戸・東京・北海道・広島そして京城(朝鮮)へと発展した.1927(昭和2)年9月の「大阪赤んぼう審査会」では3000人,昭和9年「第6回全東京乳幼児審査会」 2)は申込者が4000人を突破し,新聞雑誌に大々的に取り上げられた.おりしも照宮御降誕と重なり,乳幼児愛護が一層の盛り上がりを見せたのである.
「赤んぼう審査会」の開催方法や場所,さらには中心になる組織は,各県で異なっている.名称も「赤ん坊審査会」「赤坊審査会」などがあり,行事の定着と共に医師などからは「乳幼児審査会」という名称が使われはじめた.全国的な乳幼児保護運動は,当時の健康体奨励のブームに乗り,一段と盛況になった.やがて各県で展開していた児童愛護連盟は,1937(昭和12)年に日本児童愛護連盟 に統一された(和田2007-2).翌,昭和13年からは日本児童愛護連の名の下に「乳幼児審査会」が日本全国で開催された.しかし,戦争前夜のことであり,優良児育成政策に取り込まれ,戦時下では政府の「健康な第二国民を育てる」という管理下体制の基に,問診票が母子手帳へと体裁を整えて成立していく.
戦後も,人口増加と食料難による弊害にも負けずに,健康で強い子を育てる目的から,「赤ちゃんコンクール」が復活し,母子手帳も改善を加えられ,さまざまな問題を孕みながらも現在に受け継がれている.
ⅰ)「赤ん坊審査会会長 関一」の署名がある.開催後援は大阪市.
ⅱ)伊藤悌二「第六回全東京乳幼児審査会」『子供の世紀』12(7)1934.
ⅲ)大阪児童愛護連盟は,一支部として中心的な運動から撤退した.