小河滋次郎の児童保護思想形成における留岡幸助の影響について
-明治30年以前を対象として-
○ 東洋大学大学院博士後期課程 益田幸辰 (会員番号4901)
キーワード: 《方面委員》 《小河滋次郎》 《留岡幸助》
1918(大正7)年に創設された方面委員の具体的活動について大阪府「方面委員第一期調査要項」を検討した結果,その初期の活動において児童保護に対して少なからず関心が払われていたことが判明した.報告者は,この点の考察をさらに深めるために,方面委員制度設計者である小河滋次郎を対象に設定し,彼の考えに影響を与えた人物の1人として1歳年下の留岡幸助が果たした役割が大きいのではないかと考えた.そこで本報告は,まず1897(明治30)年以前に焦点を当てて、小河滋次郎が留岡幸助との邂逅からどのような交流があったかを検証し,初期の交流が、その後の小河の思想形成過程にどのような影響を与えたかを解明したい.
2.研究の視点および方法先行研究として,まず遠藤興一は,1897(明治30)年1月に2年に及ぶ外遊から帰国した小河と留岡の交流とその影響について,詳細な検討を行っている.その検討では,帰国後小河が執筆した留岡の『感化事業の発達』の序には監獄学から感化事業への関心の広がりと方向が示されたこと(遠藤1981:55,1982:35),この広がりと方向に具体的な事例を示唆したのは留岡が創設した家庭学校であったこと(遠藤1982:69).また「巣鴨監獄教誨師事件」で小河が留岡辞任と国立警察監獄学校教授招聘実現に向けて行動したこと(遠藤1982:52),さらに留岡の『不良少年感化事業』『獄制沿革史』では前書において小河は再び序の筆を執り,小河は後書の議論に影響を受けたこと(遠藤1982:60),なおかつ小河が万国監獄会議に日本代表委員として出発した際,留岡幸助の紹介書を持参し慈善事業の大家ハート氏を訪問し,それまでの監獄学研究から感化事業・慈善事業へと幅を広げていくこと(遠藤1982:63-64)などを挙げている.一方室田保夫も留岡幸助研究の一環として小河を検討しており,その交流について同様な指摘を行っているが,留岡は外遊する前から小河とは知り合いであり交流を深めていたと述べている(室田1998:265).しかしながら,先行研究において外遊前からの交流を詳細に分析したものは稀少であることから,本報告では,小河が留岡と知己を得た1891(明治24)年から先述した帰国に至るまでの期間における小河の児童保護思想形成に注目した.研究の方法としては,小河滋次郎の主要著作やその児童保護思想形成に関する先行研究の吟味を通して,その足跡を辿る作業を行った.留岡幸助に関しては小河滋次郎との接点という観点に絞って日記,著作その他先行研究に基づいて検証した.
3.倫理的配慮「研究倫理指針」に従い,他説を引用する際や引用において細心の注意を払った.
4.研 究 結 果 1891(明治24)年に小河が留岡と知己を得た時点では小河は内務省監獄官練習所に勤めており,留岡は北海道空知集治監教誨師であった.1893(明治26)年12月30日,留岡は監獄視察で神奈川監獄所の小河滋次郎と話し合い,翌12月31日にも夜の八時に小河滋次郎と監獄改良や自分の身の上,境遇について話し合った(留岡幸助日記編集委員会1979:339-40,353).1894(明治27)年1月17日監獄視察で小河滋次郎を訪ね夜10時まで過ごした(留岡幸助日記編集委員会1979:345).留岡は空知集治監の囚人を調べた結果その犯罪が幼少期に始まることを知り,この時期からの教化(感化)が必要だと痛感する(留岡幸助日記編集委員会1979:2,310-337).3月28日留岡は小河滋次郎宅を訪問(留岡幸助日記編集委員会1979:390).さらに5月4日にも同様に訪問し半日過ごし(留岡幸助日記編集委員会1979:395),同月10日渡米に向けて小河滋次郎宅に泊まり,翌11日小河滋次郎等に見送りを受けて午後3時30分出港(留岡幸助日記編集委員会1979:396).留岡は在米中,監獄事業の業務の裏付けとなる理論として,小河滋次郎の『監獄学』は必要不可欠であると賞賛している(同志社大学人文科学研究所 留岡幸助著作集編集委員会1978:57,86).
小河は1895(明治28)年2月,第5回パリ万国監獄会議に日本政府代表委員として出発した.1896(明治29)年1月27日ベルリンより留岡に「規律に拘泥するの弊ハ必ズ自然を没了するに帰す(中略)殊に幼年囚の待遇法於て最も然りとす。」とし「殊に幼年者の感化法の如きに至ては殆んど夢想にも此れなしと謂ふも可なり。痛嘆に堪ゆべけんや」(留岡幸助日記編集委員会1979:615)と述べている.また小河は在欧中に留岡幸助などから岡山孤児院年報の送付を受け,その返信でこの事業と監獄事業は共通性があると述べる.その共通性とは「世に捨てられたる者を救う」という事であるとし,「孤児を助けよ、罪囚を救へよ、救助せらるゝものゝ多きを憂ふる勿れ、救助するものゝ少きを憂へよ」(同志社大学人文科学研究所 留岡幸助著作集編集委員会1981:211-12)と記している.
以上のように,明治30年以前に小河滋次郎は留岡と頻繁に交流を重ねており,そのことが,彼の児童保護に関する思想の基盤形成に影響し,帰国後の実践活動に結びついたことが史的検証を通じて明らかとなった.
同志社大学人文科学研究所 留岡幸助著作集編集委員会(1978-1981)『留岡幸助著作集』1-5巻 同朋舎出版
遠藤興-(1981)「開明官僚と社会事業(2)-小河滋次郎の生涯と思想」『明治学院大学論叢 社会学・社会福祉学研究』321
―(1982)「開明官僚と社会事業(3)-小河滋次郎の生涯と思想」『明治学院大学論叢 社会学・社会福祉学研究』324
留岡幸助日記編集委員会(1979)『留岡幸助日記』1巻 矯正協会
室田保夫(1998)『留岡幸助の研究』不二出版