少年教護法のもとでの「学科」の実態について
○ 静岡英和学院大学 佐々木光郎 (会員番号2020)
キーワード: 《教育保障》 《国家統制》 《個別指導》
本発表は、少年教護法の施行(1934)のころから厚生事業が展開する1938年ころまでの時期について、地方の少年教護院を取り上げ、日々の「学科」がどのように展開したのか、その実態を明らかにするのを目的とする。
2.研究の視点および方法 少年教護法では、少年教護院長は、在院中、所定の教科を履修し、性向を改善した児童(子ども)に対し、退院後、尋常小学校の教科を修了したものと認定し証書を付与できることとなった(同法第24条)。感化法(1900)では義務教育との関係が明記されず、感化院長は尋常小学校修了の認定はできなかったが、この規定によって少年教護院の学科指導は学校教育と同等の法的な地位を得た。この修了の認定には文部大臣の教科承認を得るものとされ、教科は小学校令に準拠するものとされた。このような法的な整備は、かつて感化院での学科が各院長の裁量で個別的・個性的に進められていたものをあらため、どの少年教護院であっても学科の指導は、学校教育に準じて行うことを意味し、教育内容に関していえば修身科や国史科など国家統制が強まった。
たとえば少年教護法施行令では、教科目(修身、国語、算術など)を定め、国定または検定を受けた尋常小学校教科書を用いることや、教具の最低規準もつくられた。また、文部省の「通牒」(1935.7)に従って、毎週授業時数の最低時間数は6学年では男子24時間、女子27時間とし、授業開始の時刻は午後8時からで「45分授業15分休憩」を原則とした。
このような学校教育のそれにあわせようとする学科をめぐる動きに対し、初代の国立武蔵野学院長であった菊地俊諦(1941)は、少年教護院が小学校を「模倣」することを「学校化」ととらえ、その是非を提起した。
施行後、全国の少年教護院の対応をみると、文部省にすみやかに教科承認申請書を提出しすぐに承認を得た(大阪府立修徳学院)ところや、「少年教護院ハ小学校ニアラズ」(三重県立国児学園)といい少年教護の「特殊性」をあげて申請をためらうところや、申請するには基準となる「設備が完全せぬため出来ぬ」(青森県立青森学園)ところもあった。
ところで、この時期の少年教護院における「学科」に関する先行研究としては、戦後では、『非行問題』175号(1972)での特集のほか、近年では、小林英義(2006)の先駆的な研究がある。小林は「教育保障の史的展開」を感化院から戦後の教護院を経て今日の「児童自立支援施設の教育保障」の問題を提起している。
本報告はこれらの先行研究を踏まえ、この時期における学科の実態について実証的に検討する。本報告が対象とする少年教護院はこの時期のいくつかの地方少年教護院である。具体的に取り上げた事項は次のとおりである。
①学科を担当する職員体制、②教育環境(敷地、教室、講堂、運動場等)、③院訓、院歌ほか、④学期、年中行事(学芸会、運動会、修学旅行、遠足)、⑤教科目、教科課程、⑥授業時数、時間割、⑦学級編制(学力別、知的能力別)、⑧教科書、教具、⑨学習内容、⑩教授方法、⑪家庭学習(自習、補習)、⑫考査、修了認定、⑬保護者および近隣尋常小学校、地域とのかかわり、⑭その他。
研究の視点はつぎの3点である。
(1) 少年教護院長が、尋常小学校の教科修了を認定し証書を付与できることをどのようにとらえるのか。
教育保障の視点からすると、小学校令に準拠した授業が用意されたことは、子どもが内実的に成長するための教育が保障されたといえる。将来、「独立自営」(少年教護法施行令第1条)を果たすためには、3R's(読書算)のほか尋常小学校課程を修めた学力が欠かせない。一方では学校を「模倣」することに慎重な意見もあった。
(2) 学科を受ける子どもたちの実態はどのようなものであったのか。総じて劣悪な家庭環境のもとで育
ち、小学校では「欠席勝ちで浮浪徘徊」をこととした。「学習ニ興味ナキ児童」であったといえる。入居時の学力は低く、「全ク読書キシ能ハザル」ものも含まれた。そのうえ、知的能力も低く「生活年齢」と「精神年齢」にギャップがみられた。
(3)このような子どもたちにどのような学科指導(授業)が展開されたのか。教室や運動場などの学習環境は整えられていたのか。授業時数や時間割など各少年教護院によって違いはなかったのか、あるいは学級編成はどのように行われていたのか。
研究の方法は、この時期に各少年教護院が発行した『要覧』や業務日誌などの史料を発掘、収集しこれを整理し検討、分析した。また、日本少年教護協会『児童保護』、全国教護協会編『教護事業六十年』などの基礎的な文献を参考、引用した。
原資料から子どもや親等を取り上げて紹介する必要があるときは、すべて匿名にした。事例も特定できないように本質を失わない範囲で手を加えた。原資料のなかには、「差別用語」と思われるものも含むが、史料的に意義のあるものはそのまま掲載し注解をつけた。
4.研 究 結 果(1) それぞれの少年教護院によって文部大臣の教科承認の申請への対応に違いがあった。
(2) 学科指導の統制化が進み、院長の裁量は、子どもの性能に応じて教科目を参酌できることと、教科
目のうちの実科科目を指定できる程度に狭められた。入居している子どもの数等によって、職員の指導体制や教室、体操場等の設備にはかなりの幅があった。
(3) それでも、各少年教護院では、子どもの数や性能その他の事由に応じ学級編成を行ったり、教授方
法でも個別指導の態勢をとった。興味の喚起を促すため直感的教材を用いるなどの工夫がみられた。また、家族舎生活での夕食後の家庭学習にも力を入れた。修学旅行・遠足、運動会、学芸会なども行われ、近隣小学校との交流もみられた。農繁期には午前中から農作業に取りかかり、雨天では午後も授業を行うなど普通学校に比べると柔軟さがあった。すべての少年教護院の学科が学校教育と同レベルのものであったかは検証を要する。
(4) まとめと課題
院長が修了認定できることや、学科の教科が小学校令に準じることは、戦前の少年教護院の子どもたちの教育保障を担保するものであった。今日、児童自立支援施設において学校教育の導入を考える上での歴史的な問題の提起であったといえる。この時期、ほとんどの地方少年教護院では「学校と殆ど同位置」と自負し授業の充実につとめたが、少年教護の特質からして「学校化」に消極的な主張も存した。他方、文部省の教科承認を得るために学科指導への国の統制が強まり、戦時体制下のもとで展開する少年教護実践が戦争遂行の「人的資源供給」の事業へと変容する素地となった。なお、本報告は網羅的に実態を並列したきらいがあるので、今後、施設史的な緻密な実証研究が求められる。