岡山孤児院の里預制と里親地区の形成の考察
-葛城村国ヶ原での里親の専門性とネットワーク形成を中心に-
○ 東洋大学 菊池 義昭 (会員番号0095)
帝京平成大学 田谷 幸子 (会員番号7045)
キーワード: 《岡山孤児院》 《里預制》 《専門里親》
筆者等は、1905年(明治38)年8月から着手し1926(大正15)年前後まで、約20年間続いた岡山孤児院の里預制の実態を、一定の期間の数量的な内容分析などを通して、その具体的内容と役割を検討する一連の研究を実施してきた。この研究の中で明らかになったことの1つは、里親の地域分布が、ある特定の町村のある特定の地区(大字)に多数の里親が継続的に集中しているという特徴を確認したことである。また、このような町村の特定の地区には、長期間の養育経験を通して専門性を持つ複数の里親が現存し、かつ、地区世話役的な里親を中心に里親間のネットワークも存続し、それが里親文化として継承されるような状態にあるという特徴が仮定できたことであった。実はこの背景に、先の各地区が、江戸時代からの自然村であり、日常生活がこの自然村単位で実施されていたため、地区世話役的な里親を中心に里親間にネットワークが存続し、それが里親文化として継承されるような土壌がすでに存在していたためと理解できたことである。
2.研究の視点および方法 本稿では、先の「特徴」をより明確化するため、約20年間の岡山孤児院の里預制の全体の中で、里親が最も多く存在した村(地区)の1つである赤磐郡葛城村国ヶ原を例に、先の「特徴」を再度検討してみることにする。
3.倫理的配慮
日本社会福祉学会の「研究倫理指針」を基に、里預児と里親の個人は全て記号化し個人情報を保護し、地域名は○村大字○までとする倫理的配慮を行った。
4.研 究 結 果 1914(大正3)年から1916(同5)年の里預制の各市町村内の各地区別の里親密集度を推定すると、最も密集度が高いのは赤磐郡葛城村国ヶ原で、当時同地区の6戸に1戸が里親であるという状態にあった。実際には里親が12人おり、推定戸数が72戸であった為である。このため、当時の国ヶ原には、長期間の養育経験を通して専門性を持つ複数の里親が現存し、かつ、地区世話役的な里親を中心に里親間にネットワークが存続し、それが里親文化として継承されるような状態が存在するという特徴が理解(仮定)できた。
そこで、今回は、約20年間の葛城村国ヶ原での全里親の量的な内容から先の「特徴」を再度検討してみることにする。
約20年間の葛城村国ヶ原の全里親数は34人で、複数の里預児を養育する里親が14人もおり、2.4人に1人が複数児を養育していた。このため、同地区内に里親間のネットワークが存在していたことが想定できる。6人の里預児を養育した里親は、1906年12月から1910年12月の間に6人を、各1年前後の短期間養育した。次に、5人の里預児を養育した里親は、1906年12月から1918年3月の間に5人を養育したが、やはり養育期間は4ヶ月から2年10ヶ月という短期間であった。さらに、4人を養育した里親は3人おり、このうち、葛国1は1907年5月から1924年4月の間に4人を養育し、1人目は生後1歳の乳児を1914年9月まで7年4ヶ月間養育し、茶臼原孤児院に移転させていた。2人目、3人目は学齢期前後の里預児を1年前後養育し、4人目は3歳児を1924年4月まで3年11ヶ月間養育して同院へ移転させた。このため、本里親が最も長期間の養育を継続し、里親としての専門性を有した、地区世話役的な里親であると理解した。葛国6も1907年8月から1917年3月の間に4人を養育しているが、最も養育期間が長いのは3人目の4年9ヶ月間で、他は短期間であった。里親gは、1912年9月から1916年6月の間に4人を養育し、5歳児を3年6ヶ月間養育する傍ら、2人目、3人目、4人目をほぼ並行して短期間養育した。また、3人の里預児を養育した里親は1人で、1906年12月から1915年12月の間に、1人目が1年5ヶ月間、2人目、3人目は各3年間程度養育した。
そして、2人の里預児を養育した里親は8人もいたが、うち2人は前半期の里親で各1年から3年程度の養育期間であり、同様の里親が中半期に1人、後半期に3人いた。最も注目したのは、1人目を1909年10月から1917年3月まで7年5ヶ月間養育し、2人目は1年3ヶ月間養育し、計8年8ヶ月間の養育経験を持つ里親と、2人の里預児を各3年間程度養育し、計6年10ヶ月間の養育経験を持つ里親で、これらの里親にも専門性が理解できることである。このように、複数の里預児を養育する里親には、複数児を養育した経験に、長期間養育の経験が加わる里親もおり、このような里親は養育経験から生じる知恵としての知見を獲得し、そこに専門性が発生すると理解できることである。
1人の里預児を養育する里親は、19人いたが、このうち13人は前半期の1年程度の養育期間で終了していた。また、もう一方で6年以上の長期間養育の里親が4人おり、多数の里親の中から長期間の里親が残り、長期間養育の経験から養育の知恵としての知見を獲得していく関係性が想定できる。
以上のように、国ヶ原では、前半期の多数の里親の中なら長期間の養育を実施する里親が現れ、中半期から専門性を持つ複数の里親が存在するようになり、かつ、その中から地区世話役的な里親が登場し、そのような里親を中心に里親間のネットワークが存続し、その状態が継続し、里親文化として継承されるという特徴が再度理解(仮定)できた。