自由研究発表歴史3  寺脇 隆夫

法制定後、福祉事務所制度が発足するまでの難航
 -社会福祉事業法の公布(1951.3)後に何があったのか-

○   寺脇 隆夫 (会員番号0482)
キーワード: 《福祉事務所》 《社会福祉事業法》 《公的福祉行政機構》

1.研 究 目 的

本発表では、昨年の発表(1)に続くものとして、社会福祉事業法の成立(1951.3)からその全面施行(51.10)までの半年間、具体的には、福祉事務所(2)制度発足をめぐって展開された実施反対論・延期論による制度発足までの「難航」という事態を取りあげる。
 結果からは、福祉事務 所制度は予定通り51年10月 1日に発足(3)している。その故か、この法成立後の「難航」については、立法当事者らが執筆した文献や座談会での発言、回顧などで漠然と明らかにされている(4)のみである。なお、当事者以外でこのことに触れたもの(5)はごくわずかである。また、先行研究では管見の限り取上げたものはない。  
 本発表では、法が成立しその設置が確定したはずなのに、その後の半年間に起きた福祉事務所発足の「難航」という事態を問題とし、その経緯を明らかにする。また、その要因や問題点を究明することをめざしたい。  

2.研究の視点および方法

(1)  研究の視点
 1951年に成立した社会福祉事業法(その後、2000年改正で社会福祉法と名称変更)にあって、福祉事務所制度は公的福祉行政(とりわけその実施過程)の中核部分(第一線機関)を担うことが期待されていた。その発足によって、戦前から引き継いでいた方面委員(民生委員)に依存した「社会事業」行政体制を大きく変革し、公共団体が設けた「専門」機関とその専門職員による公的福祉行政の執行体制がそれなりに構築された(6)のである。  
 しかし、その出発時点から未熟なままに誕生し、その発育も良好ではなかったと当時の立法当事者から指摘(7)されたように、多くの課題を残していたことも事実である。それだけでなく、その後の半世紀、とりわけ1990年代以降の介護保険制度の導入以降、福祉事務所の位置が低下している(8)ことは問題だが、大筋としてその期待される役割の重要性は、なお変わっていない。  
 その点で、福祉事務所制度の出発点に立ち戻り、その難航した事態を詳らかにし、そこでは何があったのか、また、それはどのような形で収束され、福祉事務所制度が出発して行ったのか、その経緯を再検討することの、意味は大きいと思われる。
(2) 研究の方法
 本研究では、関連の文献資料や先行研究を概観・検討した上で、とくに新たに公開された木村文書資料中に含まれる関係史資料(9)の検討を行ない、当時の関係文献や新聞などで得られる情報などと関連させて吟味し、この間の経緯と問題点を明らかにするという方法を採りたい。  

3.倫理的配慮

研究内容で、倫理的配慮の問題にかかわるようなものはとくにない。 

4.研 究 結 果

(1) 関係の文献資料から得られる情報  
 さきに研究目的で指摘したように、この問題を取り上げた先行研究はないが、当時の立法当事者の記述や発言(文献名は註(4)~(6)に示してある)によって得られる情報は、次のようなものにとどまる。  
 すなわち、全国知事会の反対・実施延期などの決議がまずあった(10)が、行政機構改革に絡んで行政管理庁長官(厚生大臣兼任)・官房長官などの政府部内の反対論(11)もあり、その説得が大変で、結局、配置する社会福祉主事の定数を15~20%削減するなどで妥協がなった(12)、などである。なお、黒木は一部の記述で8月3日に解決したとしている(13)が、この点はやや疑問で、後に指摘するように問題の決着は9月にまでもつれこんでいる。
(2) 難航した事態を示すいくつかの文書資料
 ところで、この問題にかかわって木村文書資料中に見られる史資料にはどのようなものが見られるのか。当時、木村は社会局長(48.3~52.2)であり、この間の「難航」問題に直接かかわっていたから、その打開策を模索・検討した内部資料はじめ史資料は多数含まれる。そのうち、とくに重要と思われるものを一覧にしたものが、表1である。
 これらは様々なものがあるが、その内容・性格は主に次の四つのタイプに区分できる。中でもc、dの多くは初めて知ることの出来る内部資料(14)であるが、前述の(1)に対応した厚生省社会局の側からの反論(15)や対応策(16)が具体的に示されている。
 なお、これらの史資料のいくつかについては、配付資料として翻刻・紹介したい。   
a 福事務所制度の施行に向けた通知・通牒類および関連する内部文書・参考資料類(17)  
b 都道府県民生部長会・都道府県(全国)知事会など地方公共団体側の決議や要望書など(東京特別区制度に関するもの含む)  
c 都道府県側の見解に反論・説得し、打開策を検討した内部文書類・参考資料(18)類  
d(cとも重なるが)行政改革論・地方行革論等に対応した、妥協策としての内部文書・     参考資料(19)類
 (3) 半年間の経緯が示す問題の所在とその内容   
 この間の経緯の全体像を把握するためには、この時期の福祉事務所問題に加えて、それに大きく絡んだ行政改革問題(20)などについても把握する必要がある。そのため、1951年の1月から10月までに限定して、それらに直接・間接に影響を及ぼしたと見られる、当時の政治・経済・社会的な背景を含めたやや詳細な日誌を、表2としてまとめてみた。  
 まず、最初に平衡交付金制度(21)のもとで、都道府県の財政危機・財源不足(22)との絡みから、民生部長会・知事会などが、都道府県が主体となる福祉事務所制度の発足(同時に、町村部の生活保護の実施主体(23)を県の福祉事務所とする制度改編)に、危機感を表明したのが最初であった。だが、それだけにとどまらず、この時期は占領体制からの脱却のための準備・移行期に当たり「逆コース」のコトバに象徴される政治・経済・社会面での再編成が進行しはじめたことが大きい。具体的には、5月に入って政令諮問委員会による占領下体制の見直し・改革提起が様々な領域(24)でなされる。  
 かくて、行政機構改革(地方レベルでのそれも含め)が、政府方針として強力に打出されることとなり、内閣によって行政改革・行政簡素化が打出され、進行する。7月の内閣改造で、その陣頭指揮をとったのが、厚生大臣を兼務する行政管理庁長官という不運(25)も重なった。かくて、福祉事務所機構の新設とそこへの社会福祉主事の増配置は、槍玉にあげられた(26)のである。  
 これに対して、福祉事務所制の実施による町村部から県への事務引上げは、行政改革のめざす人員・財政の節減・合理化に適う(27)として、政府部内での説得を重ね、さらなる福祉主事の定員削減などの妥協策(28)まで持出している。かくて、9月7日に至って、ようやく福祉事務所の10月発足が閣議で了承された(29)のである。  
 なお、東京では大都市制度(特別区)との関係で地方行政調査委(神戸委)勧告がなされる。そこで打出された事務配分と区長任命制などをめぐり、都の事務になる福祉事務所制の実施に区側が強力に反対した(30)という問題もあったが、9月にはそれを抑えて決着している(31)。
(4) おわりに  
 発足した福祉事務所制度は、法の成立までにも妥協があった(32)が、その後の発足に至るまでにも見てきたようにさらに妥協が重ねられたため、その傷は大きかった。このことは、福祉事務所制度の整備を後々まで遅らせ問題を残す(33)ことになった。       
* 註記と表1・表2および配付資料は、当日発表会場で配付させていただく。  

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