1920年代のハンセン病問題と社会事業(第5報)
-治療解放主義の系譜(楽生病院)の検討-
○ 長崎大学 平田勝政 (会員番号2816)
キーワード: 《ハンセン病》 《竹内勅》 《楽生病院》
なぜ日本ではハンセン病患者が国際動向から乖離して90年の長きにわたり隔離を強制され続けたのか、日本はどこで道を間違えたのか、その真相究明作業は未だ十分とはいえない。本研究は、日本のハンセン病社会事業の在り方に決定的な相違をもたらす隔離監禁主義と治療解放主義に注目して、この2つの考え方の成立・展開と相克の過程を、未解明な点の多い1920年代に重点を置きながら解明しようとする一連の研究の続報である。本研究(第5報)では、第2報で解明したディーン博士来日(1922年)以降における治療解放主義の動向を整理・検討しようとするものである。主な分析対象としては、①「社会事業研究」第15巻第1号(1927.1)が「治療本位の癩病院建設」という見出しで報じている竹内勅の楽生病院(福岡・明石)、②国立ハンセン病資料館の「歴史展示」の中で「隔離を批判した医師たち」(3人)の一人として大田正雄・小笠原登と並んで登場する青木大勇(長崎皮膚科病院長)、③山本俊一著『日本らい史』(122~126頁)が一定の整理・解明をしている第四区大島療養所・第五区九州療養所等が提起・推進した軽快患者の退所問題、等が挙げられるが、第5報では上記①の楽生病院に限定して検討する。主な先行研究としては、森幹郎『足跡は消えても』(ヨルダン社)が第16章で「明石の楽生病院と大野悦子」を記述しているが、楽生病院(本院・分院)全体を視野に入れた検討はいまだになされていない。一次史料に乏しいが、全体像の把握への一歩としたい。なお、すでに「癩」などの表記に見られるように、人権尊重の見地からすると不適切な用語が使用されているが、以下でも歴史的用語として原文のまま引用することをお断りしておく。
2.研 究 結 果以下、福岡楽生病院(第一・本院:1916年設立)と明石楽生病院(第二・分院:1921年設立:跡地は現・神戸市西区玉津町高津橋)を区別しつつ一括して記述する。
院長の竹内勅は、ディーン博士来日に際し、上京して同博士と「癩病治療に就て」約3時間に亘る会見(1922.10.30)をおこない、「9年ばかり前」から「或る薬草を発見して臨床上に実験したところ意外な好成績を上げた」こと、「その九年間に経験した成績に依ると百人中七十人乃至八十人は確かに治療せしめて居る」こと、その薬液を「化学的に研究して広く不幸な病人の為に提供したい」こと等を伝えた。興味を示した同博士は、実際に楽生病院(九州帝国大学附属病院の西隣、入院患者50~60名)を視察(1922.11.14)した。1925年12月(推定)には、ダンナー(米国MTL幹事)が来日の際、明石楽生病院を視察し、親しく患者に接して、その治療成績に驚き、「癩病院にまいりますものは、片道の汽車賃しか用意しません。再び故郷に帰られないということからであります。しかし此処へ来られた方は、往復の汽車賃が必要です」と語ったという。その後、楽生病院(福岡・明石)の評判は高まり、「主婦之友」10巻3号(1926.3)は、「癩病が治って歓喜する人々の実話」と題する取材記事(明石楽生病院の全景写真と治療前・後の比較顔写真入)を掲載し、同時に櫻根孝之進(大阪医科大学皮膚科医長)による「竹内氏の薬が、根治上にどれだけの効果があるか断言できませんが、その初期の者に対しては、たしかに効果があることを認めます」との談話も掲載された。1926年から1927年にかけて楽生病院長・竹内勅は、「従来の隔離救済の如き消極式のもの」ではなく、「竹内液」と称される「家伝の注射薬に依て根本的に治療を施し、之に依て再発を防遏し真に全治させる」ことを目的に治療解放主義の取り組みを活発化させた。明石楽生病院は、1927年には増築工事をおこない、30余から100床へと増床し、従来の営利目的の病院から賀川豊彦等の援助を得て「社団法人明石叢生病院」と改称して、「治療及救済」を目的とする病院への転換を志向したが、頓挫し、やがて経営難に陥っていく。賀川豊彦の「東雲は瞬く」(「主婦之友」に12回連載:1930.8~31.7)は、明石楽生病院への財政支援が目的の執筆であったとされる。また同時期に、「社団法人明石叢生病院」の申請人(賀川ら)を中心に神戸MTL協会が設立(1930年5月頃:詳細不明)されており、同じ意図で組織されたものと判断できる。1930年11月10日に発表された「癩救護」の献身的奉仕者への皇太后による表彰者81名中に「看護婦 荻原水登」の名があるが、福岡楽生病院の看護婦(勤続17年)であり、全国有料病院から選ばれた唯一の功労者であった。その報道記事(福岡日日)の中で、荻原水登(写真入)は、「病院の治療薬が非常に効果があってドシドシ難治の患者が全快して行くのを見ると我事のやうに嬉しくあります」と語り、竹内勅は、「私の病院は明治四十四年以来私独特の注射薬で治療し今日まで二千余名を治療し、聊か難病癩治療に世間に認められました。私は癩病は必ずしも難治に非ず必ず全快するといふ固き信念の下に進んで来ましたが、今回の光栄に感激して、より以上に治療効果を収めたいと考えています」と語った。
1932年に明石楽生病院(分院)の方は閉鎖され、患者は長島愛生園に移ったが、福岡楽生病院(本院)は、十坪住宅運動(強制隔離)が強まっていく1933年の段階でも健在であった。「婦人公論」18巻5号(1933.5)は、「忘れたやうに癩病を癒した父と私」(新田とみ)を掲載し、新田により福岡楽生病院附属希楽園(姪浜)での入院治療生活と全快の様子(写真入)が紹介され、「私は今癩は不治に非ずと信じる様になりました」と書き記した。新田の手記に続いて、野木?太の「天刑病者への太陽-癩は不治に非ず-」が掲載され、「竹内液」創製の経緯やその効能等が解説されている。(まとめ)竹内勅と楽生病院の存在は、1920年代における治療解放主義の系譜の中心を形成していたと言える。
(付記)本研究は、2010年度科学研究費補助金(課題番号20530507)による研究成果の一部である。