自由研究発表歴史2  中村英三

信州善光寺大勧進養育院の社会的意義
 -明治初期の救貧事業の生成と地域力-

○ 常磐大学コミュニティ振興学部  中村英三 (会員番号4368)
キーワード: 《救護施設》 《善光寺大勧進養育院》 《慈善事業》

1.研 究 目 的

 「救貧事業としての大勧進養育院は、東京養育院、金沢陽風園に次いで、我が国三番目の創設であり、仏教慈善事業としては古く光明皇后の悲田・施薬の二院の創設に次いで三番目である」と、1983(昭和58)年5月10日発行「潤生・三帰寮100年の歩み」の挨拶文で社会福祉法人大勧進養育院院長・大勧進住職三浦義薫師が述べている。明治初期の廃仏毀釈という仏教界の混乱期、形骸期、虚脱期にあって、一地方である片田舎の長野の一角で、救貧事業を発願して、実践に移した奥田貫照師の功績は多大である。 本研究では、当時の大勧進養育院の形成に導いた組織構成員の社会的階層等を含め、時代背景・政治・経済・教育・文化等の視点から総合的に考察し、当時の運営の仕組みや、当時の施設の暮らしの実際、施設と地域との関係性を明確にする事によって、明治期の社会福祉の実践である善光寺大勧進養育院を検証し、日本の福祉における施設史に貢献する事を目的とする。 

2.研究の視点および方法

 日本の貧民救済の歴史的経過を遡ると、その根本はすでに江戸・中世期・古代において人間社会の相互扶助精神に存在しており、それは「お互い様」の精神で人間同士が助け合って「暮らし」を営むための心情的な物から生まれる「集団性」「共同性」「仲間意識」である「結」を中心に自然発生したものであった。貧民の発生の要因には、天災、飢饉、疫病による生活の困窮があるが、施設を設けた救貧事業がわが国で最初に行われたのは明治に入って間もなくのことであった。
 本研究の対象である明治初期の貧民救済策には1868年の「堕胎禁止令」・1871年「窮民一時救助規則」「行旅病人取扱規則」・「棄児養育米給与方」(1871)・「三子出産ノ貧困者ヘ養育料給与方」(1873)などがあり、1874(明治7)年に代表的な救貧立法である「恤救規則」が制定された。しかしこの政策は働く能力の有る者や家族・親族等のあるものは対象外とされており、これ以外の対象者「無告の窮民」に制限したことによって、その当時の集団生活における病気や失業などの理由で責務を果たす事が出来ない多くの弱者への対策は、これを常に課題としながらも実質的に解決を見出す事が出来ず、1931(昭和6)年まで日本国唯一の公的扶助法として存続していた。
 この政策の対象とならなかった貧民の救済を実践していたのは、宗教団体やあるいは個人的資産を投じて社会事業に貢献する慈善事業家や篤志家たちであった。彼等は当時の社会病理(貧困問題等)を補充・支援を実施して社会的問題解決の一翼を担っていた。その当時、一地方都市である信州長野県長野市(当時長野村)では、大衆信仰として親しまれていた信州善光寺の副住職奥田貫照師が、救貧施設「善光寺大勧進養育院」を創設した。 本研究では善光寺大勧進養育院の「考課状・年報」および「長野県史」「新聞記事」などの史料から、時代背景・人物像・処遇状況・運営方法について調査し、大勧進養育院で行われた救済活動の実践を、地域住民がどのように理解し支援をしたのか、協力者や篤志家は、養育院に対して「何を期待して金品を出したのか」、それに対して養育院は「地域に何を返したのか」を明確にすることによって大勧進養育院の社会的意義を検証する。 

3.倫理的配慮

史料の扱いについては、人物、活動地域等の情報に関してプライバシーと人権の点から配慮を行った。 

4.研 究 結 果

奥田貫照師は、落伍者の発生は社会的欠陥であり、廃疾・不具・孤児・貧児の救済は地域における急務であるという発想を原点として、地域の篤志家との関わりを軸に貧民の救済に尽力した。大勧進副住職は、役職上執事としての任務をもち、地域の有力者層と善光寺との接点として機能した。奥田貫照師が執事として地域の賛同と協力を得られたことが、大勧進養育院の設立と運営を支える重要な要素となっている。奥田貫照師の築いた救貧事業は、5年後に奥田師が東京の浅草寺に移ってからも後任によって受け継がれ、大正の中期には孤児を含めた延べ人数213名(そのうち退院者73名、死亡者96名、他9名)を救済する救貧施設に発展した。
 善光寺に関しては、江戸時代の寺領設置から明治の発展に至るまでの長野村の歴史を通じて、その特質を把握することができた。
 第一に、北国街道の要所であった善光寺宿としての門前町の局地的な繁栄と、それによる門前町と貧困農民との間に急速に発生した貧富格差である。大勧進養育院は、この取り残された貧困層を救うために設立した事業であった。比較的に富裕であった門前町の住民から寄付を集めることに加え、さらに一般層の農村からも、それぞれの区の組長を通して慈恵米の収集に成功しており、農村内においても貧困を助け合える仕組みを提供した。このことにおける大勧進養育院の存在意義は、地域の住民同士による慈善行為の媒体となっていたことであり、長野村全体の地域格差の解消を目的としていた。 第二に、善光寺信仰に関する点である。遠方から善光寺参詣にやってくる講などの信仰とは違い、長野村の住民は江戸時代から寺領善光寺に対して領民の関係であったため、その先祖供養の意味を含めた善光寺信仰は、民衆の生活に密接なものであり、また地域の風土としても尊重されるものであった。さらに、寄附者本人が死亡した際の大勧進による供養が条件となっていた会員制の寄附募集においても、善光寺信仰がその活動の原動力であった。 養育院と地域との利害関係を含め「地域住民が大勧進養育院を支えようとした意図は何か」「大勧進養育院は地域に対して何を返したのか」といった共生関係に視点を置き分析した結果、養育院は、地域が抱える問題の解決方法を善光寺大勧進が信仰を含める形で提案し、地域に運営協力を求めた結果、地域がそれに応えたことで継続運営を可能にした。また、明治初期の他の救護施設と比較した場合、「地域の宗教信仰が原動力なっている施設」という面で特徴的であったことと、寺院からの恩恵や収容児童の受け入れなどの相互の組織的な協力体制は、当時の公的な政策では成し得なかったと考えられる。 

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