久布白落実と婦人参政権獲得運動
-1920年代を中心に-
○ 関西学院大学大学院研究員 嶺山 敦子 (会員番号7320)
キーワード: 《久布白落実》 《婦人参政権獲得運動》 《婦選獲得同盟》
久布白落実(1882-1972)は、日本キリスト教婦人矯風会(1886年設立)を中心に活動した女性運動家である。女性史の中で部分的に取り上げられることはあるが、社会福祉史において注目されることはあまりない。しかしながら、久布白は廃娼運動、婦人参政権獲得運動、性教育への取り組み等を通して、女性の権利保護や福祉につながる様々な活動に熱心に取り組んでおり、社会福祉史において取り上げていくべき人物でもある。
本研究の目的は、久布白落実研究の一環として、1920年代を中心に婦人参政権獲得運動において久布白が果たした役割を明らかにしていくことである。1920年代は1925年に男子の普通選挙法が成立し、その後、婦人参政権の獲得に向け、さらに婦人参政権獲得運動が盛んになっていった時期である。久布白自身は1920年前後から婦人参政権に関心を持ち、1920年代半ば頃から、実際に運動に関わり始め、1930年頃まで中心的役割を果たしている。
本研究では、次の3つの視点から久布白と婦人参政権獲得運動について考察していく。
第一に、久布白はどのような目的をもって、婦人参政権獲得運動に取り組んだのか。久布白は『廃娼ひとすじ』という自伝があるが、廃娼運動だけではなく、様々な活動を行なってきた。その中の一つに婦人参政権獲得運動がある。社会福祉史の中で、婦人参政権獲得運動が取り上げられることはほとんどないが、久布白が感じたように、女性の権利保護ともつながるものであり、社会福祉の課題と関わる重要なテーマである。
第二に、久布白の婦人参政権獲得運動に取り組む手法はいかなるものであったか。久布白は矯風会機関誌『婦人新報』を通じて、婦人参政権に関する記事を執筆し、会員に対する啓発を行なっていた。その後、欧米への視察などを通して、必要性を認識し、実際運動に取り組んでいく事になったが、その実際運動の手法などを明らかにしたい。
第三に、久布白は婦人参政権獲得運動においてどのような役割を果たし、また影響を及ぼしたのか。久布白は他の女性運動家たちを巻き込み、運動の中心組織となる、婦選獲得同盟の創立に関わり、総務理事を5年間務めていた。そのように重要な役割を果たしているにも関わらず、その働きは一般にあまり知られていないのではないだろうか。
研究方法としては、1920年代を中心にテーマに関する資料を収集し、その理解、解釈を行う。具体的には『婦人新報』(矯風会機関誌)、『婦選』(婦選獲得同盟機関誌)等の久布白執筆記事、婦人参政権獲得運動関連記事など、当時の資料を用い、歴史的に分析していく。
本報告は、歴史的研究であるので、現代的視点から考えると、差別的であると思われる表現が登場することもあるが、当時の状況を鮮明に伝えるために、そのまま使用しておくこととする。
4.研 究 結 果 1920年代の久布白は、廃娼ひとすじというより、婦人参政権獲得運動を中心に活動を行なったとしても過言ではない。以下、研究の視点として挙げた3つの視点から考察を加えていきたい。
第一に、久布白は、婦人参政権獲得運動は婦人運動の手段の一つとして考えていた。これを得てから、女性の領域を更に開拓していこうという考えであった。久布白は廃娼の実現のために、また、女性の権利の保護・拡大のために、婦人参政権獲得運動に取り組んでいったのである。
第二に、久布白は飛田遊廓許可取消運動(1916年4月15日、大阪府庁が飛田の地2万坪を遊廓敷地として許可し、その後1917年10月30日まで、請願など反対運動を行なった)での失敗、三沢千代野事件(水戸の下女奉公に出た少女が転売され身を汚され、刑事訴訟を起したが、微罪不検挙となった)などの出来事から、婦人参政権というものの必要性を痛感し、1921年の日本婦人参政権協会の設立、また1923年の関東大震災を経て、他の女性運動家たちも巻き込みながら、1924年の婦選獲得同盟設立に関わり、その総務理事という重要な役割を任されていた。様々な出来事を通し、納得した上で、久布白は徐々に婦人参政権獲得運動に取り組んでいったのである。初めは矯風会内部での婦人参政権への取り組みであったが、関東大震災を機に、他の女性運動家との連合運動へと発展していった。
第三に、久布白は1920年代半ばから30年の婦選獲得同盟総務理事辞任時まで婦人参政権獲得運動の中心的役割を果たしていた。そして、共同運動の先駆者といえるのではないだろうか。様々な組織の女性たちをまとめ、共同運動の基盤を創ったのは久布白である。
また、運動を進めていくにおいて、久布白は矯風会(日本婦人参政権協会)と婦選獲得同盟という組織の狭間にあり、久布白自身、組織と個人の意思の違いという問題に直面していた。しかしながら、結果的に同盟を退くことにはなったものの、運動において、宗教も思想も違う人々と協働・連帯するという事を大切にしており、その後もその姿勢は持ち続けていくのである。そこから学ぶところは大きく、現代にも通じる姿勢ではないだろうか。