石井十次と「社会主義」との出会い
○ 片山貴夫 (会員番号4785)
キーワード: 《岡山孤児院新報》 《石井十次》 《社会主義》
本研究では、石井十次が「社会主義者」といわれる思想・価値観の体系と出会い、接触と葛藤のなかから、自らの思想を発展させた経緯について論じる。
先行研究に、坂本忠次・赤松力「石井十次の林源十郎書簡をめぐって」(『倉敷の歴史』第7号、1997年3月号)がある。「青年の福音」(不敬罪)事件で服役(1901年7月~1904年6月)した仮出所後の山川均が1904(明治37)年10月、岡山孤児院を訪ねていることに言及されている。
2009.10.21の地域社会福祉史研究交流会で本研究の序説が発表された。
本研究では荒畑寒村編『社会主義伝道行商日記』などの史料を活用し、石井十次および岡山孤児院関係者との接点を調査した。
3.倫理的配慮 慈善もしくは社会事業の対象となった(クライアントというべき立場にある)人間の個人名については、1世紀前の人間であるにせよ原則として苗字のみを記し、フルネームを公表しない。場合によってはイニシャルのみの表記とする。
個人の人物評価については、「(史料)が述べている評価」と、「筆者個人による判断」とをあくまで峻別する。
出所不明の史料と情報については用いない。
前掲先行研究の「石井十次の林源十郎書簡をめぐって」においては、書簡以外では山川均の件について一切触れられていないと、述べられている。政治犯なので言及されないのは必然とおもわれる。私見であるが、『日誌』1904(明治37)年10月23日で「倉敷の店にて役に立たぬ児供でも岡山の店に来れば外部の刺激に激せられて充分一人前の仕事をなすと林[源十郎]兄は言へり」と述べられている一文が、これと関係することばであった可能性は否定できない。
平民社の山口孤剣(義三)が社会主義文献の販売と宣伝のために東海道・山陽道を旅した。1904年12月末から1905年1月初旬にかけて岡山県に来ている。その際、岡山教会(組合教会)牧師の安部清蔵氏、「岡山孤児院の教師をしてをったといふ基督教徒」と記されている、石井十次を指すとおもわれる人物から社会主義について敵対的な態度をとられている(『社会主義伝道行商日記』、125p)。
1904年11月7日には、岡崎の種子宅に来ていた「岡山孤児院の事務員」と会い「孤児が渋沢栄一氏の宅でご馳走になつて西洋料理の食ひ方を知らなかったことなどを聞」(前掲84p)ている。
ここで注意したいのは、平民社の社会主義者は、牧師も含むキリスト教徒のところも回って宣伝していることである。警察に尾行されながらの行商であったが、学校、役場、政治家をも訪問していることにみられるように、必ずしも社会的な孤立状態ではなかった。
〔岡山孤児院以外で〕社会事業施設も3つ訪れている。
1904年10月27日、10月30日 出獄人保護会社(延原天民)を訪問(前掲76p、79p)。
1904年10月24日、富士育児院(現・社会福祉法人芙蓉会、渡辺代吉。)の2階で社会主義の談話会を開く(前掲76p)
1904年12月18日 神戸養老院(寺島のぶえ)に宿泊(前掲114p)
『光』29号(1906(明治39)年12月5日)の「岡山孤児院の醜態」、および同紙30号(同年12月15日)の「石井十次」は、岡山孤児院に対する敵対的な記事であるが、内容は醜聞暴露の水準であって、慈善・社会事業に対する社会科学理論の視点ではない。巨額の費用をかけ華族や新聞記者を利用して募金する方法が槍玉にあげられている(29号の記事は山口孤剣署名)。全体として『光』はキリスト教徒の(富者の味方としての)態度を批判している(のであって、イデオロギー批判とはあまりいえない)。ちなみに『光』においては、社会の主流と距離をとっていた内村鑑三ですら批判の対象となっている。
「社会主義」がキリスト教と対立した存在として扱われるのは、日露戦争で平民社が反戦の立場をとったことが契機であった。
『石井十次日誌』では1906(明治39)年12月8日「予を誤解して悪評するものあるを見て真に心底より感謝に堪えず」と記されている。『日誌』207pには編者のことばとして「石井は間もなくかかる興業や慈善音楽会を一切やめてしまうが この罵言は中止の一機因をなしたものと考えられる」と記している。それは中央の政財界名士を利用した慈善会をさすものとおもわれる。
石井は社会主義を叫ぶ必要をないようにするために岡山孤児院を拡充し、国家と皇室に献呈するという希望(国営化)を『日誌』では表明している。