自由研究発表歴史1  西崎 緑

アメリカ社会事業史におけるホイットニー・ヤングの位置づけ
 -公民権運動と専門社会事業-

○ 福岡教育大学  西崎 緑 (会員番号0410)
キーワード: 《アメリカ社会事業史》 《公民権運動》 《全国都市同盟》

1.研 究 目 的

 本研究の目的は、1950年代から60年代にかけてのアメリカ専門社会事業界の人種問題への態度を、ホイットニー・ヤングを中心に分析することにある。なお、この研究報告は、科研基盤研究(C)(一般)「50年代におけるアメリカ社会福祉界の変化と黒人社会事業家に対する評価の転換過程」の研究の一部を報告するものである。
 革新主義時代以後、アメリカ専門社会事業界は、その専門性を確立すべく努力を続けてきた。とりわけ1950年代には、精神医学との接近やケースワークの技術的発展を志向するようになっていたが、これには、2つの理由があった。すなわち戦時中に急速に発達した精神医学の影響を受けたことと、社会福祉を巡る政治状況が急速に保守化したため、社会改革路線が退潮を余儀なくされたことである。
 こうした国内状況下、アメリカ専門社会事業界は、国外における社会改革の実践に活路を見出すこととなった。第二次大戦後のパックス・アメリカーナが進む中、国連活動等を通じて、彼らは、諸外国におけるアメリカ専門社会事業の普及に参加し、現地での教育・訓練や技術的支援を行っていったのである。
 アメリカ専門社会事業の海外輸出の対象国の一つとなった日本では、1950年代に援助方法論についての研究が盛んになった。今日までのアメリカ社会事業史の研究でも、この間に輸入された方法論の変遷を辿ることが中心となってきたと考えられる。
 一方、この時代のアメリカ国内では、公民権運動が盛り上がりを見せ、1954年のブラウン判決以後、人種隔離の廃止と黒人の公民権獲得への動きは加速されていた。しかし、こうした動きに対して、少なくとも1950年代から60年代はじめまでの間、専門社会事業はむしろ無関心であり、人種問題や公民権への取組を積極的に取り上げることはなかった。また、それまでの専門社会事業界のあり方について、自己批判や改革も起こらなかった。
 では、アメリカ社会事業史の中で黒人問題が取り上げられ、人種差別の撤廃はどのように進んだのか。それについて研究し、一定の結論を出すべきときに来ているということが、本研究の背景となる問題意識である。  

2.研究の視点および方法

 本研究でとりあげるホイットニー・ヤングは、1960年代後半に専門社会事業界の指導者(全米ソーシャルワーカー協会会長及び全米社会事業会議会長)となった人物であり、かつ公民権運動の中心として活躍した人物である。研究の視点の第一は、人種問題に対して冷淡であった専門社会事業団体が、ホイットニー・ヤングを会長に選ぶ時点で、どのような変化をとげていたのかという点である。
 ただし、彼の活躍は、専門社会事業界を根本から変えることにはならず、黒人ソーシャルワーカーたちを満足させるに至らなかった。1964年公民権法成立後、ようやく公民権を実現するためのソーシャルアクションへの取組が一部の社会事業学校で見られるようになったが、ジョージ・ワイリー等が中心となった福祉権運動は、専門社会事業界の外から起こされたものであった。こうしたことから、1968年、黒人社会事業家たちは、ついに全米社会事業会議から離脱し、全米黒人ソーシャルワーカー協会を形成するに至った。したがって、研究の視点の第二は、ホイットニー・ヤングとこれらの離脱した黒人社会事業家との乖離は、如何にして生じたのか、という点である。
 具体的な研究方法としては、ホイットニー・ヤング関連文献、及び全米ソーシャルワーカー協会、全米社会事業会議資料を中心とした文献研究により、上記2点を明らかにする。  

3.倫理的配慮

 文献研究が主であり、著作権の取り扱い以外には、倫理的配慮を必要としない。 

4.研 究 結 果

 1961年に全国都市同盟の事務局長となったホイットニー・ヤングは、それまでどちらかと言えば保守的な団体であった都市同盟を、公民権運動の中心的役割を担う団体へと変貌させた。都市同盟は、1911年の設立以後、ニューヨーク、シカゴ、デトロイトなどの主要都市において組織され、南部から移住した黒人に対して職業紹介、住宅支援、公衆衛生活動などの生活支援を行ってきた。そのため、時折、人種差別に抵抗する不買運動などに加わることがあっても、その中心は、福祉サービスを提供する団体であると認識されてきた。しかし、ヤングは、都市同盟を投票登録運動に加わらせたほか、1963年のワシントン行進を支えるなど、公民権運動に積極的に係わる戦闘的役割を担わせようにした。
 ヤングはまた、ケネディ、ジョンソン、ニクソンの各大統領の下で、公民権についてのアドバイザーをつとめ、特にジョンソン政権では、「貧困戦争」政策の具体的内容に彼の考えを織り込んでいった。DickersonがMilitant Mediator(戦闘的仲裁者)と表現したヤングの個性が、1960年代に次々と実施された連邦政府の福祉制度改革に大きな影響を与えたことは疑いもない。
 したがって、第一の課題に対しては、ヤングが、専門社会事業界が無視し得ぬ政治的影響力を持ったため、彼をリーダーとして承認することにつながったのだと言える。第二の課題に対しては、福祉サービスやそれを担うソーシャルワーカーが黒人を抑圧する役割を担っていると考えた黒人社会事業家たちは、ヤングに改革の担い手となることを期待していたが、それが叶えられなかったために失望し、別団体を組織するに至ったのだと言える。  

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