研究協力者との相互作用による研究倫理の確立
-HIV感染者への質的研究における経験より-
○ 大阪府立大学人間社会学部 山中 京子 (会員番号4129)
キーワード: 《研究倫理》 《相互作用》 《HIV感染者》
質的研究では、個人に関わる様々な経験がその研究対象となる。言い換えれば、研究が
個人にかかわる様々な情報に直接触れつつ進行するのである。量的研究では、データ収集、
分析過程、公表過程において研究者に対してまた一般社会に対しても個人情報は匿名化される
度合いが高い。しかし、質的研究では、研究者が研究協力者と直接対面してつまりこの2者間
で個人を特定化した形でデータを収集し、その公表においても、個人の発言内容が引用の形
で公表されるなど匿名化の度合いが量的研究と比較すると低いと言えるのではないだろうか。
質的研究にとって、データ収集、分析過程、公表過程のどの局面をとっても個人情報といか
に関わるのかまたそれらをどう扱うかは本質的な研究倫理上の課題であると考える。
昨今医療機関におけるIRB(Institutional Review Board)の設置に始まり、特に2000年
以降諸学会における研究倫理規定の制定、研究機関における研究倫理委員会の設置と委員会
による倫理審査制度が急速に普及している。個人情報をどう扱うかについても、上記の規定
や委員会において一定の方針が具体的に示され、それに従うことによって、その研究は倫理的
な基準を満たしていると判断されるようになってきている。
筆者は90年代の半ばから現在に至るまで、医療におけるHIV感染者に対する心理・社会的
支援を研究テーマとし、HIV感染症という疾患がもつ個別的な状況の中で研究を行ってきた。
その経験を通じて、倫理規定や倫理審査制度が個別の疾患や状況に対応し、その結果として
研究の実施過程において研究協力者がのぞむ個人情報の保護を十分に実現しうる具体的な
方法を研究者に提示できるのかという疑問を抱くに至った。筆者は、上記の倫理規定や
倫理審査制度が今ほど一般に普及していない時代に研究を始めた。しかし、そのことは個人
情報の保護をめぐる自分の研究倫理のあり方に関してどこからもチェックされないという
ことではなかった。筆者は調査協力者であるHIV感染者からダイレクトに自分の研究倫理の
あり方について指摘される多くの経験をした。筆者は個人情報の保護に関して研究協力者
とのこのような直接的なやり取りの中で、自らの研究倫理のあり方を問い、研究倫理を実現
する具体的な方法を学んできたと考える。現在のような研究倫理にかかわるさまざまな装置
がある時代において、それらの装置と研究協力者と研究者の直接的なやり取りの相互作用は
どのように関係するべきなのかについて筆者の経験を手がかりに検討することが本報告の
目的である。
1998-9年に利用した各相談資源からの支援に関する主観的意味に関してHIV感染者への 面接調査を行った際の経験および1999-2000年に相談資源の利用プロセスに作用する要因に 関してHIV感染者への面接調査を行った際の経験を中心に報告する。
3.倫理的配慮倫理的配慮の具体的方法やその方法の検討過程を分析することが本報告の目的である ため、以下結果の記述で説明する
4.研 究 結 果 1998-9年の面接調査では、その予備調査において、研究協力医療機関が求めた書面
での調査協力の承諾書をめぐって研究協力者から「承諾したら、署名をと言われても、
自分の本名を書きたくない人もいる。研究には協力したい。だから、署名しなくてもいい
ことを認めるべきだ。」という意見が寄せられた。HIV感染者であることがわかったために
職場や大学での差別事件が起こったことが新聞などに報道されていたため、上記のような
調査協力者の不安は研究者である筆者にとっても十分理解できるものであった。そこで、
承諾書の内容は読み合わせるが、署名をとらない承諾書を受け取り、その承諾書にナンバー
をふることにした。しかし、この承諾書は、他の研究者から署名のない承諾書は承諾書の
意味をなさないと厳しく批判された。現在の倫理審査において、承諾書の本人署名が必須
条件として求められる研究機関もあるという声を聞く。
また、1999-2000年の面接調査では、結果を論文にして掲載する場合の個人情報の扱い方
について研究協力者から「論文の中には、よく各個人別に基本属性、病状、治療、生活状況
を示す表が示されるが、これらの情報を全部つきあわせると個人が特定されるおそれがある
のでやめてほしい。」という意見が寄せられた。上記のような個人情報の漏洩が個人の
実生活にもたらす重大な不利益の実例報道を研究者も見聞きしており、そこから喚起される
個人情報の漏洩に対するHIV感染者の持つ強い不安やおそれは共感できるものであった。
そこで、全調査者の変数毎の結果報告を行った。しかし、質的研究の研究者から、引用文の
発言者の背景や条件がまったくわからず、その発言の分析や解釈が妥当であるかどうか十分
に検討できないとのコメントをもらった。
2000年以降筆者もHIV感染者に対する研究に関して医療機関や大学での研究倫理審査を
受けてきたが、上記のような個人情報の保護をめぐる葛藤状況への理解や具体的な方法の
指示は、それらの研究倫理審査の過程で示されることはほとんどなかった。
倫理規定や倫理審査は、研究の倫理の基本ラインを平準化することに寄与し、また第3者性
を備えて研究者の権利侵害の有無をチェックする機能を持つと考える。しかし、研究の倫理
はそれだけで実現するのではないだろう。倫理規定や倫理審査の後に、研究者と研究協力者
が、研究の倫理のあり方を相互に検討するプロセスが組み込まれて初めて、研究の倫理が確立
すると筆者は考える。