モンゴルにおける市場経移行後の貧困問題とその要因
○ 東京大学大学院人文社会系研究科 Alzakhgui Delgermaa (会員番号5167)
キーワード: 《社会主義体制崩壊》 《市場経済移行》 《貧困問題》
共産主義権下にあったモンゴル国は中央集権的経済体制をとり、コメコン体制の中で
ソビエト連邦・東欧諸国経済に大きく依存していた。しかし、ソ連邦の崩壊とともにモンゴル
では1989年末から民主化運動が起こり、結果的には1990年にモンゴルが自由民主主義市場
経済の導入といった歴史的な選択をした社会主義から資本主義へ体制変換のための改革が
次々と実行された体制変換は一般の人々の生活を大きく変え、従来の家族機能や地域社会の
生活にも大きな変化が起こり、貧困の深刻化、失業者の増加、ホームレス、ストリート
チルドレンなどの数多くの社会問題が生み出されている。
本研究では、モンゴルの貧困の拡大、深刻化に着目し、市場経済移行直後の貧困と2000
年以降の移行期の貧困2008年以降の新しい貧困(貧困の世代的連鎖)の3期に分けそれぞれの
要因を明らかにしたい。
全世界では依然として約12億人が1日に1ドル未満の生活を余儀なくされている絶対的
貧困層とされている1996年にOECD・DAC(経済協力開発機構・開発援助委員会)が策定した
新開発戦略は「今なお10億人以上の人々が絶対的貧困の中で苦しんでいるがこうした問題に
取り組むことはわれわれ先進国に暮らす者たちにとって重要な人道的な責務である」とし
2015年までに貧困人口比率を半減することを目標に掲げた他方でOECD(経済開発協力機構)
は2006年7月に「対日経済審査報告書2006年版」の中で先進国の中で日本の貧困率(18~
65歳の勤労世代を対象とした2000年時点の相対的貧困率)がアメリカの13.7%に次いで
第2位の13.5%の高さであるとの実情を示した(橘木2006※1)。このように貧困は全世界に
共通する社会問題となっているが近年発展途上国のみならず先進国の貧困に関する関心が
高まっている。
モンゴル政府は、1991年に世界銀行の主導で公式貧困ラインを設定し貧困の存在を認めて
いる。1995年1998年に生活水準測定調査(Living Standard Measurement Survey、 LSMS )
を実施して貧困ラインを細かく地域別に設定した。さらに1998年に生活最低基準法が制定
され同法の4.5条により生活最低基準・貧困ラインをNSOが計算確定することとなっている。
以来公式貧困ラインが毎年更新されている。しかしモンゴル政府が貧困を認めたにもかか
わらず日本でいう生活保護対策はモンゴルでは実施されていない。
本研究で扱う貧困、生活水準に関する公式統計データは、1990年代以降のものが中心
となる。モンゴルの貧困問題は、市場経済移行後から注目されてきたが、直接この問題を
研究対象としている研究は決して多くない。これは日本のモンゴル研究に限らずモンゴル
においても言えることである。本研究の方法は主に既存の資料分析となるが、先行研究
として1995年以降に国家統計局(National Statistical Office of Mongolia NSO)の貧困、
生活水準に関する主な調査報告書と刊行物モンゴル政府、UNDPモンゴル事務所の「モンゴル
の人間開発報告書(Human Development Report)」などを取り上げる。
※1 橘木俊詔, 浦川邦夫著、『日本の貧困研究』、東京大学出版会、2006
本研究では最新の先行業績を探索し自己の研究水準の向上に努め、モンゴルにおける 貧困問題を3期に分けて分析したことが独自性となる。研究方法は資料分析となっている ために参考文献の引用を本学会の原則を参考にしている。
4.研 究 結 果 民主化後、二つの大きな波が労働者と遊牧民から生きる手段を奪った。第一の波は、
「移行の波」である。1991年に市場経済への移行のために行われた国有財産の私有化・
国営企業の民営化の失敗が原因であった。これがモンゴル経済の不況,成長の鈍化,失業,
貧困,不平等をもたらした最大の要因となった。こうした急激な市場経済化は,都市社会
のみならず,牧畜を主体とする地方社会を巻き込む形で進行していった。本研究では市場
経済直後の貧困の要因を国営企業の閉鎖や民営化に伴う失業、価格の自由化、インフレ率
の上昇、国有財産の私有化という視点から検討した。
それから9年後、第二の波が地方遊牧社会を襲った。2000年の雪害(ゾド)による家畜
の大量死である。これは自然災害ではなく1992年にネグデル(牧畜協同組合)を解体後、
生産を強化し、流通システムを担うネグデルに変わる組織を作らなかったことによる人災
だと指摘する研究者もいる。特に深刻な寒波に見舞われたモンゴル西部では定住地に住み、
畜産物の流通に関わっていた商人が県都やウランバートルへ移住を始め、また家畜を失った
遊牧民も後を追うようになった。この頃「移行の波」の被害にあったウランバートルの人
たちはすでに担ぎ屋や商売に転職しある程度貧困を乗り越える力をつけるようになっていた
が、「移住の波」に乗って、農牧地域から都市部へ移り住む人口の流入が急増し、結果的
には首都ウランバートルへの一極集中的な人口増大がおこった。ウランバートルの周縁部に
定住した移住者が劣悪な「ゲル※2地区」と呼ばれるスラムで都市の“新しい貧困層”を形成
するようになった。現在、ゲル地区は市の住宅地面積全体の6割を占め、市人口の約半数が
居住している。市外から流入する移住世帯の3分の2がここに吸収されており、人口の増加は
著しい。そしてゲル地区が洪水被害、煙害、井戸、土壌の汚染、ゴミ問題を抱える都市
スラムなのである。
※2 モンゴルのゲルはフェルトと折りたたみできるように組まれた木材でできており、移動が
容易でモンゴルの伝統的な放牧生活に適した住居。