日本における児童虐待に関する社会的対応の変遷
-占領期【1945年(昭和20年)~1952年(昭和27年)】-
上智大学 田中 真衣 (会員番号6768)
キーワード: 《児童虐待》 《歴史研究》 《占領期》
近年、児童虐待問題が社会の耳目を集めてから久しく経つ。1990年代後半より高まり始めた児童虐待に対する世論の
関心も後押しして、2000年に「児童虐待防止等に関する法律」が制定された。2004年には「児童福祉法」も大きく改正さ
れ、児童虐待防止のための対応システムも少しずつ整えられてきた。しかしながら関係従事者の懸命な想いや働きも虚し
く、児童虐待はなくなる気配すら見せず、ましてや関係機関が関わっていても、命を落とす児童も依然として存在してい
る。果して現在の児童虐待防止システムは、適切な役割分担や資源配分がなされているのだろうか。この疑念から、現在
の児童虐待防止システムのあり方を改めて見つめなおしていくことを研究の大目的としている。
本稿では、現在のシステムが整備された第二次世界大戦直後の日本に注目し、GHQによる間接統治のもと、日本社会
ではどのように児童虐待問題に対応していたのか明らかにしていく。また、現在児童虐待防止活動で中心的な役割を受け
持っている児童相談所や児童委員、保健所等の関係機関の設置目的や当時の状況を確認していく。
研究方法としては、文献研究を採る。戦後日本の被占領期時代に公布された児童福祉政策については、既にいくつか の文献で丁寧にまとめられている。例えば、吉田・一番ヶ瀬(1986)、秋山(社会福祉研究所.1979)は、占領期に児童 福祉行政に関わっていた者へ直接的なインタビューを行い、貴重な一次資料を提供している。当時のPHWと厚生省官僚の やり取りやその関係性、どのような価値観や手順で作業が行われていたのかが、臨場感を持って理解できる。村上(1987 )は、戦後の児童保護対策の経緯を緻密に描いており、寺脇(1996)は、児童福祉法成立に至るまでの関係する資料を発 掘し、提示している。菅沼(2005)は、政策主体がどのような理念を掲げて政策を動かそうとしていたのかという点に関 心を充て、まとめている。本稿では、これらの文献をもとに、児童虐待という視点から当時の状況を切り取り、児童虐待 に関する社会的対応の変遷として再構成していく。
3.研 究 結 果当時の日本国内は、戦争によって傷ついた負傷者や病者で溢れ返っており、不衛生な環境の整備が一義的な目的で
あった。そこで公衆衛生に関するすべてを扱うPHWが設置され、主任にサムズが着任した。PHWは厚生省や保健所の改
編を行い、公衆衛生管理のシステムを整備していく。児童保護対策については、蔓延していた栄養失調児、精神異常
児、疎開学童、体位低下児童、非行少年を保護する為に、欧米諸国からの援助物資を取り扱う機関LARAの設立や、ユ
ニセフから寄附をもらう手配を施していった。1946年にはSCAPIN775に基づく「浮浪児その他児童保護の応急措置実
施に関する件」が各地方に通達され、いわゆる"刈り込み"による児童保護が行われた。サムズは、当時の日本人には
児童福祉の概念が欠落していたことから、児童福祉の概念と新しい児童福祉プログラムを始めていくために、米国「
少年の町」のフラナガン神父を招聘し、児童福祉の考え方を一般社会に広めていった。しかし当時の厚生省は、引揚
者や戦災者等への対応に追われ、児童対策は後回しにされていた。これでは未来の日本を背負う児童に悪影響を及ぼ
してしまうと、1946年3月頃、当時浮浪児対策を担当していた社会援護局長高田正己が、児童局設置の必要を上司の
葛西嘉資に訴える。そして、中川薫治や松崎芳伸といった官僚たちと供に、児童局設置と児童保護法制定に向けて、
どのようにしたらPHWに興味を持ってもらえるかと策を練り、米国のチルドレンズ・ビューロを引き合いに、サムズ
に手紙を出す。PHWも理解を示し、9月以降、PHWからGHQに向けて、児童局設置についてどのように対応していくかと
いう会議が持たれていく。児童保護法案も作成されていくが、要綱案の時点で、中央社会事業委員会から"暗い"と猛
反対され、法案は要保護児童や特殊児童にのみ焦点を当てるのではなく、普遍的な法律にしなければならないと批判
を受ける。こうして、児童保護から児童福祉へと法律の趣旨を大転換させ、"明るい"条文にするために、前文を置い
たり、児童遊園や保育所に関する規定を盛り込んだりと、試行錯誤が繰り返される。そして1947年3月に厚生省内に
児童局が設置され、12月に児童福祉法が公布されるに至る。こうして、国の責任で行う中央集権型の体制が構築さ
れた。また、児童福祉法にて設置が規定された児童相談所には、児童に関するケースワークに従事する有給職員で
ある児童福祉司職を置くことが、PHWの強い主張によって決められた。しかし、児童相談所体制は浸透せず、貧弱な
体制であったため、国連からキャロル女史が招聘され、児童相談所体制構築の指導が行われる。一方民間では、戦
前から活動していた児童保護施設は、戦災による焼失や、財政的窮迫、主食の遅配や欠配が続くなど、切羽詰った
状態であった。さらに日本国憲法第89条、SCAPIN775の規定で、公私分離政策がとられたことにより、民間団体に対
する公金支出制限規定がされ、民間団体の運営が窮地に追い込まれてしまう。
このように、戦後直後の国民生活が不安定な状況の中では、児童虐待が特別に問題視されて対応がなされるほ
ど社会的余裕がなかった。既存の児童虐待防止法も、普遍的な総合法である児童福祉法に取り込まれていった。し
かしPHWは、被虐児は里親制度を通じて児童措置システムを確立していくことや、専門家として訓練された児童福
祉司を要とする児童保護体制を構想していただけに、実際に履行された体制との乖離が見られることが明らかにな
った。