社会事業法案審議にみる戦前期社会事業の特徴
佛教大学 池本 美和子 (会員番号2483)
キーワード: 《社会事業法》 《厚生省》 《社会立法》
本報告は、昭和戦前期の社会事業関連の国政審議をとりあげることにより、社会事業を主導してきた国家方針を 明らかにするという報告者の近年の研究課題に基づくものである。社会事業形成期については、1900年前後から1920 年代前半の国政審議を中心に取り上げてきたが、そこでは西欧諸国の社会政策・社会サービスとは異なる国民の感化 ・教化を基盤とした「社会事業」の特徴を見出すことができた。また日本の社会事業が外的要因にその都度影響され て形成されてきたという従来の評価には必ずしも与し得ない、政府当局側のある種の一貫性、その意味では内発的な 要因が強固に存在していたと言えるようなものがあった。本研究はその流れをさらに進め、戦前期の到達点を明らか にすることが目的であり、本報告はその一部を占めるものである。
2.研究の視点および方法1938(昭和13)年は、厚生省が内務省社会局から独立して一省として独立し、同時に国家総動員法が制定される など、戦時体制が本格的に動き出すという重要な年である。同年の社会事業法案審議では、同時に職業紹介法改正、 商店法、簡易生命保険法改正などが一括して審議されている。ここでは社会事業法案委員会での本法審議を中心にと りあげ、特に次の2点を中心に分析をすすめたい。①本法案の性格、②社会事業の理念をめぐる問題。これらは戦時 厚生事業との関連のみならず、戦前期を通じた社会事業政策の特質を浮き彫りにするものであると考える。
3.倫理的配慮該当せず
4.研 究 結 果① 社会事業法案の性格をめぐって
先行研究では、本法が戦時下の統制・監督を目的としたものであって助成については消極的なものであったこと 、しかしながら、初めての社会事業基本法であったとも言われる。
政府関係者は、監督については社会事業の発達を目的とし、助成もその一環であること、さらに厚生大臣は助成 を眼目としているとも述べていた。しかし、その中で工藤政務次官は「今日マデ其ノママニシテ居ッタ社会事業 ヲ統制スルタメノ法律ハ今日マデ出来テ居ラナカッタ、之二対シテ現存シテ居ルモノヲ統制シ、将来二於イテモ コレヲ統制、併シ唯単二統制ダケデハイケナイ、見込ミノアルモノニハ一定ノ国家ノ力ヲ貸シテ助成シテイク故 二此法律ノ建前ハ統制ト助成ト二ツナガラ相並ンデ進ンデイキタイト言ウ方針デアリマス。」と、統制に重点を おいていた事をかなり明確に表明していた。委員からは社会事業法という包括的名称であるのに除外されるもの が多く(個別法があるもの、軍事援護事業など)さらに従事者や組織、設備等にかかわる規定も欠如しており、 名称を変えるべきという指摘も繰り返された。さらに、厚生省が設置されても社会政策・社会事業に関連した事 業が各省に分散されたままで、それらは本法の対象外であることなども包括的立法には程遠いものであった。注 目されるのは、委託費をめぐって、いわゆるナショナル・ミニマムが設定されず、施設の基準も何等根拠が定め られないままで、不合理で非科学的「一種ノ見当デヤッテイル」という厳しい批判があり、この点でも基本法の 要件を欠いていたのである。最後に「我ガ国社会事業ノ現状二鑑ミ政府ハ速ヤカニ基本的社会立法ヲ整備スベシ」 という希望条項が提起されたのは、まさしく本法の特殊性を示すものといわざるを得ない。
② 社会事業の理念をめぐって
社会事業の根本精神について、松井茂は「公益トイウコトヘ帰着スルトイウコトニナリマスカラ、国家奉仕 トイウコトニ結論ハナッテクル」とのべ、個々人への救済を「共同」ではなく「我ガ国体ノヨウナ融合」によっ て、即ち「家庭国家」に根ざして進めるべきことを主張していた。また、山崎社会局長も「権利思想二陥ラナイ ヨウニ施行二当リマシテ各地方庁等ヲ督励イタシマシテ、充分ノ留意ヲ促ガシ(中略)、将来モ斯クノ如キコト ガナイヨウニ」と「家族制度ノ美風(中略)隣保相扶ノ観念」が依然として社会事業の根本をなす考えであると 述べていた。こうした姿勢を基調とする限りにおいて、いかに積極的な社会立法あるいは「厚生法」が期待され 、同意がなされていても、「恵撫慈養ノ精神」として天皇制国家の仁政に基づくという点では、たとえば田子一 民の『社会事業』にみられる精神、及び、その後の社会局の方針と一貫した姿勢が維持されていることが読み取 れる。
こうした審議から浮かび上がってくるのは、本法がこれまで法制化されてこなかったその他の社会事業を掌 握し、総動員体制を固めるものであって、その意味では戦時統制に沿う立法としての意味をもつことは言う までもない。しかし、それは戦時統制として突如浮上してきたものではなく、これまでの社会事業に関する 政府の方針の延長上にあることも忘れてはならない点である。たとえば、早い時期では明治30年代から増加 を見せ始める慈善事業への国家的関与(全国施設の視察など)があり、日露戦争後の国民統合の一環として 進められた感化救済事業の講習・指導がある。さらにその一環として始まる内務省の奨励助成、それらは独 立自営を進める地方改良とともに地方自治体に実施責任を負わせつつも国がその指導監督を強力に推し進め ていく形をとっていた。その間、私設事業の財政難も大きく関わってくるが、国の指導・監督部分の法制化 は、一面ではこれまでの歩みの必然的な到達点として位置付けることが可能であり、戦時体制がそれを促進 する働きをしたといえよう。