1900年代初頭における感化救済団体における活動(その1)
-日本型セツルメント活動の分析試案-
淑徳大学 小倉 常明 (会員番号2016)
キーワード: 《感化救済》 《セツルメント》 《地域活動》
明治から大正にかけての日本は、近代化への発展過程を邁進しながらも、日清・日露両戦争に対する莫大なる社会経済的負荷
からの脱却を目指していた。しかしながら国家体制が整備されつつあるなかで、貧富の格差はますます拡大し、国民の国家・社
会に対する不平・不満は高まっていくばかりであった。
他方、民間の慈善事業家は、それぞれの思想をもとに様々な慈善活動を展開する時代でもあった。欧米の地域改良の方策と
しての「セツルメント」が日本でも盛んに行われるようになった。しかし、活動主体が異なればその設立経緯や運営内容には相
違があるはずである。そこで本研究では、個々のセツルメント活動を取り上げ、その設立経緯、運営、活動内容等について検証
していくことにより、それぞれの相違点を明確にしていくことを目的とする。
「セツルメント」といっても、この時代の活動のなかには大きく分けて2つのタイプがあるといえる。1つが宗教(キリスト
教、仏教)を背景としたもの、もう1つが社会科学的視点からの取り組みである。加えていえばセツルメントとしての位置づけで
はないが、災害後の公的救済活動もあげられるかもしれない(注1)。
(注1)東京市の辛亥救災会、大阪市の大阪弘済会など。
研究方法としては、宗教系の活動のなかから浄土宗労働共済会の活動を取り上げ、そこが発行した『労働共済』を中心に、
当時の社会状況と照らし合わせながらその特性を分析していくこととする。さらに2つめとしては東京帝国大学の活動を取り上げ
、『帝國大學新聞』に記載されていた記事内容から、その活動の実態等について確認をしていく。
セツルメントに関する先行研究は数多ある(注2)ため、それらにもあたりながら、研究内容に重複することがないように注
意を払うこととした。また、いくつもの文献にあたるなかで、可能なかぎり原著にあたるよう心がけた。さらに、地域活動という
ことから、現地踏査に基づく検証を加えながら考察を深めるよう努めた。
(注2)西内潔『日本セツルメント研究序説』(童心社 1968年)ほか
明治から大正にかけての日本社会は、文明化とともに近代産業化、さらには資本主義化等といった目まぐるしい進化発展過程
のなかに身を置き、かつてない変化のなかで、さまざまな軋轢も同時に生じさせていた。自由主義による資本の独占化が進み、
その矛盾が資本家と労働者との階級闘争を導いた。しかしながら、そうした階級闘争に立ち上がることができえたのはすべての
国民ではなく、社会的矛盾を感じていながらも活動する力をもち合わせていなかった者、またはそうした事実を十分に認識する
ことができなかった者がいたことも事実である。時代はそうした者を放置しておくことができない状況へとなりつつあった。成
熟しつつある現代社会であるのならば国家責任でそれらにあたったのであろうが、未成熟または発展途上にあった20世紀初頭の
日本社会では、国家にはそうした問題の解決へと動くだけの体制が十分とはいえなかった(注3)。
(注3)1878(明治11)年に恤救規則が設けられただけで、あくまでも家族、親族、近隣による相互扶助が原則とされていて、
国家による救済は1929(昭和4)年に救護法が制定されるまで何度か法律制定審議にあげられたが、処々の事情により潰えてい
る。
そうした時代的背景を受け、またかたや人道的動機も含みながら、民間の慈善事業家や団体が立ち上がっていった。児童や
障がい者への活動は、キリスト教や仏教等の宗教的信仰を基盤に公的救済に先んじて展開されていった。(注4)
(注4)石井十次の岡山孤児院や成田山新勝寺の成田学園などがあげられる。
労働者、特に低所得階層にある者への救済は、19世紀末に欧米で誕生した「セツルメント活動」が、20世紀初頭、明治から
大正という時代に、日本でも積極的に展開されるようになった。代表的なものとしてはキリスト教でいうならばジェーン・ア
ダムスの岡山博愛会、片山潜のキングスレー館等がある。仏教では浄土宗労働共済会等がある。
①『労働共済』浄土宗労働共済会
浄土宗労働共済会は東京の下町、深川近辺を中心にセツルメント活動を展開していった。
雑誌『労働共済』は渡辺海旭を中心に、中西雄洞が実質的担当者となって、労働者救済活動を中心に論文をあつめ、
「社会事業」という言葉が定着する前の時代、1915(大正4)年1月に第1巻第1号を発行している。途中、名称を『新文化』
とかえながらも継続して発行された。その創刊号の年賀の広告に渡辺海旭や中西雄洞らの名前が掲載されている。
②『帝國大學新聞』(東京帝國大學年 1920~)
1923(大正12)年12月22日第61号のなかに「ユニバーシティセツルメント事業は最近急に具体化して愈々本所猿江裏の東川
小学校付近に約五千円の予算でセツルメントハウスを作ることになった」と記載されている(契約合意にいたらず、別の地にて
設立)。帝大セツルメントが他のセツルメントは異なっていたのは「社会科学の実験室である」「自然科学研究のために実験室
や付属病院があるがごとく、このセットルメント(原文のまま)によって学生達が如実の世界がいかなるものであるかを学ぶの
である」(『大正13年6月2日東京日日新聞夕刊』)と書かれている。
日本におけるセツルメントは岡山孤児院創設者である石井十次から(注5)ともいわれるが、設立母体が異なれば、当然、
運営方針、活動内容も相違点があろう。また明治と大正、さらに関東大震災という未曾有の大災害の前と後でも時代的要請も
違うはずである。今後はそれらの分析しながら、それぞれの全体像を明確にしていくことを課題としたい。
(注5)西内潔『同上書』「石井先生は、岡山孤児院の創立者として、また、明治社会事業の開拓者として、わが国の社会事
業界並びに基督教界に有名であるが、わが国最初のセツルメント創設者としての石井十次先生を知る者は少ない」