厚生事業下の教護実践の実態について
-小規模な地方少年教護院の事例をとおして-
静岡英和学院大学 佐々木 光郎 (会員番号2020)
キーワード: 《人的資源》 《教護実践の不全》 《限界性と継続性》
厚生事業が展開された、1938年ころから1945年までの時期について、地方の小規模な少年教護院を取り上げ、戦時下に おける家族舎生活や、日々の学科・実科がどのように展開したのか、その実態を明らかにするのを目的とする。ここでの 「小規模」とは、収容の子ども数が20名前後の少年教護院をいい、「地方」とは国立以外のそれをいう。
2.研究の視点および方法少年教護は児童保護事業のなかに位置づけられ、厚生事業の展開とともに、教護目標は変容した。すなわち、不良行為
のある子どもをもって戦争遂行に役立つ「人的資源」であるととらえた。教護実践は、彼らを人的資源として「培養育成
する」(1941年全国児童愛護週間実施要綱)ものとなった。それまでは、入所した子どもを、将来、「独立自営」できる力
を身に付けさせることにあったが、これは「個人主義」であるとして後方に退けられた。このことは、「問題の子ども」
も「一般の子ども」に組み込まれたことを意味する(井村圭壯・藤原正範「日本社会福祉史」2007、50頁)。厚生事業下の
教護実践者は、自らのしごとを「国家に対する大なる務」と理解し、「人的資源供給の難事業」と受けとめた(「児童保護
」第10巻第2号、1940、118頁)。
他方で、教護実践が「国家将来に重大関係」があるものとしても、子どもたちの資質上には大きな変化がなく、家族
舎生活における日々の暮らしも、それまでの規則正しい日課が踏襲されていた。この「継続性」は、戦時下を経て、戦後
の教護院の教護実践にも引き継がれた。では、実際は、どのような教護実践が展開されたのだろうか。本発表では、これ
らのことを地方の小規模な少年教護院の事例をとおして検証する。その典型として青森県立青森学園を取り上げる。研究
の視点はつぎの3点である。
(1) 対象の子ども
入所する子どもたちのようす(入所前の境遇、入所当時の家庭生活状況、不良化の原因、入所当時の学力程度など)に
変化があったのか、なかったのかである。
(2) 教護実践の実態
日々の家族舎生活においても、「悪癖」などいろいろな困難を抱えた子どもたちのすがたがあった。少年教護院では
宿命ともいえる無断外出や夜尿など、子どもたちの問題行動はなくならなかった。
ところで、国策である健民健兵政策は、教護実践にどのように浸透したのか。ある少年教護院では、鍛錬主義と称さ
れる集団行動や教練などが普及した。
さらに、家族舎生活や学科、実科などにも次第に戦時色が色濃く反映した。例えば、年間行事(四大節等)や戦勝祈願
の神社参拝などの実践が重視され、子どもたちの間では「りっぱな兵隊」になることが夢として語られた。また、職
員からは、卒園生の入営が後輩たちに誇らしげに伝達された。しかしながら、戦争末期、日々の子どもたちの生活は
窮乏した。その実態はどのようなものであったのかである。
(3) 地域との隣保相扶
この時期、少年教護院は地域社会のなかで大切な役割を担っていた。部落会町内会をはじめ、在郷軍人会、国防婦人
会、小学校、警察、その他との結びつきは強いものであった。そこで、実際には、院長・職員の地域活動はどのよう
なものであったのか。来訪者には、親以外にはどのような人々がいたのであろうかである。院外教護の実務を担うと
された少年教護委員との連携はどうであったのだろうか。
研究の方法は、入所した子どもに関する記録や「園長日記」(1937-1949)などの原資料を分析、検討したほか、当時の
関係する者との面接調査も行った。また、日本少年教護協会「児童保護」などの基礎的な文献を参考、引用した。
原資料から子どもや保護者(親)等を取り上げて紹介する必要があるときは、すべて匿名にした。事例も特定できない ように本質を失わない範囲で手を加えた。また、原資料のなかには、「差別用語」と思われるものも含むが、史料的に意義 のあるものはそのまま掲載し注解をつけた。
4.研 究 結 果この時期を区分して、①1938年の国家総動員法制定の前後から太平洋戦争の勃発まで、②太平洋戦争の戦時下、③終戦
直後の時期とした。
(1) 変わらない子どもたち
子どもたちの入所事由にはおおきな変化がなかった。ただし、一部、父親の出征などの影響を受けたものはいたが、
全体としては、親の不適切な養育のもとで育ち保護を要する子どもたちであった。親の大半は経済的な困窮や、離婚
などの家族間の不調和を抱え、「問題の子ども」に困惑していた。
(2) 教護実践の実態
ア 実践の継続性
戦時下といえども、職員は子どもたちと生活をともにして「温情慈愛」の実践を行った。「不遇児」の彼らに自信を
もたせる指導が続けられた。規則正しい日課のもとで朝夕の行事等が行われた。
イ 教護内容の変容
① 儀式の肥大化・形式化 1940年11月紀元2600年祝賀行事が始まるなど、少年教護院においても、国家行事であ
る四大節はさらに重視された。
② 家族舎生活の窮乏化
1940年国民体力法が制定され、子どもたちの体格の向上がいわれるが、やがて1941年の生活必需物資統制令、1942
年の衣料・味噌・醤油切符制が実施され家族舎生活は窮乏した。
③ 教護実践の不全
子どもたちは戦争に間接的、直接的に関わるようになった。例えば、出征兵士の見送り、戦死者葬儀への参加や、末
期には防空壕造営や勤労奉仕などが行われた。1945年の終戦直前になると学科はほとんど行われず、実科を主とした
食糧増産に追われた。
(3) 地域との隣保相扶
地域の扶助共同の一端を担ったほか、師範学校や警察学校への出向、母親たちへの銃後の家庭教育など幅広く社会教育
に招へいされた。地域におけるオピニオンリーダーの機能を果たした。
戦後直後は、家族舎の神棚は取り壊された。敷地内に造営した防空壕も取り壊された。また、柔・剣道具は廃棄され、
文部省からの戦時教科書削除の通達を受けて、授業で用いていた教科書は黒墨で塗り替えられた。やがて浮浪児たちの
一時保護を担った。
厚生事業下の教護実践は、非行の子どもたちを「人的資源」ととらえて、戦争遂行の一翼を担う大人へ育てることに あった。他方で、戦後の児童福祉の礎ともなった。そこで、この時期の少年教護事業の限界性や戦後への継続性について 総括する必要がある。