シンガポール共和国における障害児教育・福祉の変容について
-国際的な障害者の権利擁護と政府の就学待機児数の公表-
○ 東京成徳大学 那須野 三津子 (会員番号5047)
キーワード: 《シンガポール》 《障害児教育・福祉》 《障害者の権利擁護》
保護者に帯同され外国で教育を受ける子どもにとって、外国人学校は、言語・学力保障等の観点から重要な教育機会の場の一つである。このことは、障害のある子どもにとっても同様である。しかし、制度保障等の問題で、外国人学校で障害のある子どもが受け入れられないことも示唆されている。
日本国外にある日本人学校は、受け入れ国によってその位置づけは異なるものの、外国人学校に相当するものである。障害のある子どもを外国人学校での教育対象者に含めて論じた研究が少ない中、
いち早く1980年代に障害のある子どもの受け入れを行ったシンガポール日本人学校に着目した研究がある。この研究では、当該校で障害のある子どもが受け入れられた経緯として、当該校が対象児の障害について把握する前に入学を許可したことをあげている(那須野,2010)。あわせて、対象児は、受け入れ国の障害児教育施設を利用しつつ、学籍のない状態で日本人学校に通学したことから、対象児が日本人学校で受け入れられた要因については、地域の状況や学校運営の実態等からも検討する必要性が指摘されている。
そこで、本研究では、地域の状況に着目をし、シンガポール日本人学校が障害のある日本人の子どもの受け入れについて考慮するようになった経緯を分析するために、1980年代の受け入れ国における障害のある子どもの就学待機状況について明らかにすることを目的とした。
1980年代のシンガポール共和国(以降,シンガポール)における障害のある子どもの就学待機状況を明らかにするために、政府刊行資料の他、障害児教育施設の運営団体を助成するシンガポール社会福祉協議会の年報を主たる分析資料とした。
3.倫理的配慮本研究では、公開されている資料を分析資料に用いた。また、1980年代のシンガポールでは、障害児教育は福祉サービスの一環として捉えられていたため「障害児教育施設」という用語を用いた。
4.研 究 結 果シンガポールは、1965年にマレーシアより独立し建国された都市国家である。人口は、国勢調査によると、1980年に約241万人、1990年に約269万人であった。人口の8割弱が中国系、1割強がマレー系、1割弱がインド系あるいはその他の民族で構成され、国語としてマレー語、公用語として英語、中国語、マレー語、タミール語が使用されていた。
シシンガポール社会福祉協議会の年報をみると、初期の頃には、障害児教育施設数や待機者数の掲載はなかった。1981年以降になり、時折、その数値が具体的に掲載されるようになった。この年報によると、1981年に、障害児教育施設の利用待機状態を解消するために訪問プログラムが実施された。このプログラムを実施するために2名の人員(障害児教育担当教員1名とソーシャルワーカー1名)が配置され、6歳以下の8名の子どもが対象となった。本プログラムの対象者のうち3名は重複障害、2名はダウン症、1名はてんかん発作を有していた(The Singapore Council of Social Service[1982]9)。
他方、シンガポール政府統計(Ministry of Education, Statistics Section[1981]14)によると、1981年には、障害児教育施設が14施設あり、当該施設の利用者は1,956名(うちフルタイム利用者1,675名)であった。この状況に加え、後述する1988年の障害児教育施設の利用待機者数と比べると、1981年時点での利用待機者が6歳以下の8名のみであったとは考えられにくい。実際の待機者数が公表されなかった理由は述べられていないため、その人数の公表が控えられたのか、そもそも人数自体が把握されていなかったのかについては不明である。
後年の障害者諮問協議会の報告書(The Advisory Council on the Disabled[1988]41)には、1988年6月調査時点での障害児教育施設の利用者が2,087名、軽度・中度・重度の知的障害児施設ならびに重複障害(肢体不自由を含む)児施設の利用待機者が365名いること、知的障害の子どもは平均半年から2年間待機状態に置かれていることが記された。1981年の報告と比べると、より具体的な説明になっている。ただし、ここに取りあげられている子ども以外にも、施設利用の申請をしていない未就学の障害のある子どもがいた可能性はあると考えられる。
前述の1988年の報告書は、当時の第一副首相によって教育省へ障害者諮問協議会を立ち上げるように指示されて作成されたものである。本報告書では、慈善福祉団体が障害児教育の運営を継続しつつも教育省が障害児教育に対して責任を持つべきあること、障害児教育を福祉サービスではなく教育として捉えることが提言された。参考までに、シンガポール教育省の『Education Statistics Digest』をみると、障害児教育にかかる予算は、1990年以降に掲載されるようになった。また、1993年以降の年報には、施設の利用待機児について言及されることはあっても、その具体的な人数についての記載は見あたらなかった。施設の利用待機児への対応は、教育省が責任をもって行うことにより、社会福祉協議会の年報での言及が少なくなったものと推察される。
さらに、国際的な動向を考慮すれば、施設の利用待機者数が初めて公にされた1981年は、国際障害者年であった。1988年の報告書が作成された前年は、国連・障害者の十年(1983-1992年)の中間年であった。障害児教育に対する政府の責任が一層重視されるようになった1988年から1992年の間には、国連・障害者の十年の最終年(1992年)と、アジア太平洋障害者の十年(1993-2002年)の採択(1992年)があった。このことから、障害のある人の社会参加を促す国際的な動向が、シンガポールにおける障害のある子どもの就学待機状況を社会的な問題として浮かび上がらせ、さらには、障害児教育施設の利用待機児数の公表を促したものと捉えられる。
1980年代のシンガポール政府は、障害のある外国人の教育保障以前に、障害のあるシンガポール人の教育を受ける権利を保障しきれていなかった。しかし、国際的な障害者の権利擁護の動向を背景に、受け入れ国政府は障害のある子どもの教育機会の確保に取り組むようになった。このような中、日本政府支援のある日本人学校が、障害のない日本人のみに教育機会を保証し、障害のある日本人を排除するという状況を容認することは、国際的な動向に照らし合わせると齟齬が生じる状況に変化したといえる。つまり、国際的な障害者の権利擁護の動向を含めた地域の状況が、日本人学校での障害のある子どもの受け入れを促す要因の一つであったと考察される。
Ministry of Education,Education Statistics Section(1981)Key education statistics.Ministry of Education,Education Statistics Section,Singapore.
那須野三津子(2010)1980年代初頭の日本人学校における障害児教育着手に関する研究:日本国内の全員就学の動向と受け入れ国の日本人コミュニティとの接点.運動障害教育・福祉研究,10,97-106.
National Council of Social Service(1993-2004)Annual report.National Council of Social Service,Singapore.
The Advisory Council on the Disabled(1988)Opportunities for the disabled.The Advisory Council on the Disabled,Singapore.
The Singapore Council of Social Service(1965-1992)Annual report.The Singapore Council of Social Service,Singapore.
付記:本研究の一部は科研費(21730727)ならびに学術研究振興資金(平成22年度)の助成を受けたものである。