「教護理論」の構築された背景とそこから導き出される特徴
-感化院から児童自立支援施設に至る「非行少年」へのまなざし-
日本女子大学人間社会研究科研究生 武 千晴 (会員番号6016)
キーワード: 《感化教育》 《教護院》 《児童自立支援施設》
55回大会で筆者は「教護理論」についてまとめ、今日的な視点で再考した。
今大会では、「教護理論」(第55回大会要旨参照)が構築された背景を通史として
捉え、その特徴を整理し再考することにある。
(1) 我が国における「非行少年」と呼ばれる子どもに関する法の成り 立ちと、感化院、少年教護院、教護院、そして現在の児童自立支援施設への変遷とを併せ て整理し、
(2) そこから導き出される「教護理論」の特徴を導き出し、
(3) 「教護理論」について再考を試みることを目的とする。
我が国の罪を犯した子どもや「非行少年」と呼ばれる子どもに関する法について、これ
までにも研究成果が発表されているが、それらの内、通史として捉えた研究の多くは法体系の
成立を中心に歴史的資料としての価値を重視したものであり、分野としては法研究、あるいは
少年司法、矯正史としてまとめられたものが多い。また、感化院、少年教護院等の研究もそれ
ぞれに進んでいるが、その多くは特定の施設や人物、年代に限定した研究であり、また、子ど
もの権利擁護、もしくは福祉サービスの提供という視点から捉えたものは多いとは言えない。
以上のことから本研究では子どもの権利擁護、もしくは福祉サービスの提供という視
点から、「教護理論」に着目し、その構築された背景を通史として捉えることとした。その方
法は、感化院時代から続く機関誌を中心に文献研究を行った。また、併せてインタビュー調査
及びごく一部ではあるが資料発掘の機会も得た。
日本社会福祉学会「研究倫理指針」に従い配慮した。
例えば、インタビューの際には、協力者に研究目的、調査の趣旨、プライバシーの保
護等について説明し、同意を得て行い、データの管理に努めた。また、引用の際には差別語及
び今日あまり使われなくなった用語等については「 」取りするなどの工夫を加えた。
(1) 我が国における「非行少年」と呼ばれる子どもへの法の成り立ちと、感化院、少年教護院 、教護院、そして現在の児童自立支援施設への変遷について
ここでは感化法及び少年教護法成立の経緯についてのみ、ごく簡単に述べる。先に挙げた
施設関係者は既に明治の時代から、後に「非行少年」と呼ばれる子どもたちの生育環境に着眼
し、彼らに必要なことは従来の「閉じ込めと懲らしめ」ではなく、子どもの保護と権利の保障
であると考えていた。そうした「兒童主体」の理念の下、関係者は声を上げ運動を展開、1900
年感化法が成立した。しかし感化法は「産み棄て同然の死産法」であり、二度の改正を経て関
係者の「猛運動」により1933年、議員立法として少年教護法が成立した。
(2) そこから導
き出される「教護理論」の特徴について
まず、「教護理念」が全国統一的に展開・実
践された時期について、戦後の復興期以降、実質的には高度経済成長から非行第2のピークの
頃までではないか、と言うことが導き出された。法制度化により一個人による感化事業から、
公の感化院運営へと変革する中、又一方で矯正院が実践を始めるという状況下、「非行少年」
と呼ばれる子どもを請け負う施設として不十分であるという烙印を押された感化院は、その実
践の理論化、体系化を表明することを迫られていた。感化院の理念、理論、実践の蓄積が「指
導の三本柱」や「夫婦小舎制」等、基本的なかたちとしてある程度のまとまりをなして全国施
設の共通理解へと進んだのは少年教護院時代であるとされるが、その頃国は太平洋戦争へと突
入する。そして戦後、少年教護院は児童福祉法下の教護院となり、厚生省児童局より全国統一
の手引書として『教護院運営要領』が発行されたのが1952年であったためである。
次
に「教護理論」の内容について、虐待を受けた子どもに対応すべく構築されたものであると考
えられた。感化院から児童自立支援施設に至る通史を通じて常に浮かび上がるのは、虐待(不
適切な生育環境を含む)を受けた子どもの存在であり、同施設は常に彼らを受け入れ対応して
来たからである。
また、教護院が就学免除であったことから、同施設の「学習指導」
は、戦後50年以上の歳月をかけて、いわゆる文科省下の学校教育とは異なる独自の発展を遂げ
た可能性がある、という点が整理された。
(3)「教護理論」について再考を試みた結果
(1)については、現在に通じる高い人権意識、優れた理念が当時の感化院関係者に、
それはジェネバ会議以前に存在し、それが基盤となっていたこと、(2)については、「教護理
論」とは、今日で言うところのストレングスとエンパワメントの視点を重視した環境療法、
あるいは環境療法的なサービスの提供を目指したものであったということが導き出された。
また、サービス提供を「院外教護」と「院内教護」とに分け、予防からケースの発見、
アフターケアまでを想定した構想であったことも特筆したい。