英国児童虐待防止研究 その18
-ベビーP虐待死亡事件とラミング報告書:
繰り返される第二のクリンビエ事件-
園田学園女子大学短期大学部 田邉 泰美 (会員番号1663)
キーワード: 《ベビーP》 《ラミング報告書》 《児童虐待防止ソーシャルワーク》
2007年8月、ロンドン北部ハリンゲー地区で、生後17ケ月の男児ベビーP(法的な理由で名前
が伏せられている。現在はPeterと表記)が虐待死(死亡時は肋骨骨折(8箇所)脊椎骨損傷)
させられた。ベビーPは自治体関係者と78回も接触をもち入退院を繰り返していたが保護(強制介
入)されなかった。本事件に関与した2人の男性の有罪(2008年11月)が確定し報道されると、クリ
ンビエ事件(2000年)と同地区であったことから、社会の関心は頂点に達した。
本事件は
国会答弁でも取り上げられ、児童大臣Ballは、2004年児童法の権限を行使し(初めての権限行使)
、ハリンゲー地区における児童安全保障(虐待防止)に関する緊急の合同査察調査を命じるともに
、地区児童安全保障委員会(LSCB)委員長のS.Shoermithを更迭した。さらにラミング卿(クリン
ビエ虐待死亡事件の調査委員長)に、クリンビエ事件以降、児童社会サービス改革の進捗状況
に関する全国調査を依頼した。3月に提出された報告書は、ソーシャルワークの質と量およびそ
れを裏付ける財源の確保に焦点が合わされたことが特徴的である。ベビーP事件の概要およびラ
ミング報告書の勧告を整理し、なぜラミング報告曹ェソーシャルワーク改革に言及したのか、政
府の諸政策との関連と影響を明らかにする。
Guardian、Children & Young People Now、The Protection of Children in England: A Progress Report: The Lord Laming(March 2009. HC330)、The protection children in England : action plan The Government's response to Lord Laming(May 2009, Cm 7589) 等の公開資料に基づいて、ベビーP事件、ラミング報告書、政府の対応を整理し、それぞれの関 連/影響をオーバーラップさせて考察する。
3.倫理的配慮資料・文献の引用にあたっては、研究倫理指針第2指針内容A引用に則って行う。
4.研 究 結 果 ①調査の種類:本事件に関して4つの調査が実施された。
a深刻なケースの調査(Serious case review)虐待死などが判明したときLSCB
が実施する調査。児童大臣Ballは最初の調査報告書のやり直しを命じ、前ケント児童サービス部
長G.Badman をハリンゲーLSCB委員長に任命し、再調査にあたらせた(5月公表)。b
ラミング報告書(Laming report)クリンビエ事件調査報告書の勧告および政
府の児童社会サービス改革(Every Child Matters:ECM)の進捗状況に関する全国調査報告書
(ベビーP虐待事件調査報告書ではない)。c地区合同児童社会サービス
査察委員会調査報告書(Joint area review of safeguarding)政府(Ball)は2004年児童法
の権限を行使し、ハリンゲー地区の児童安全保障(児童関連社会サービス)に関する緊急調査
を命じた。Ofsted 、保健医療ケア監査委員会、警察からの査察官と、ハンプシャー児童サービ
ス部長J. Coughlanの協力の下で実施された(12月に公表)。d地区児童安
全保障委員会の現状調査(Local safeguarding children boards stocktake):LSCBの活動
内容の調査報告(政府の要請)。S.Shoesmithがハリンゲーの児童サービス部長とLSCBの委員長
を兼務していたことより、LSCBの独立性が守られていたのかという疑問への対応。
②事件の概要:ベビーPは2006年3月1日に生まれる。6月12日、父親
は家出し、12月頃に母親は新しいボーイフレンドと同居する。12月、家庭医(GP)がベビーPの
顔面と胸部に傷害を確認する。母親は逮捕され警察が調査を実施し、2007年1月11日に保釈さ
れる。ベビーPは母親の友人宅に保護(公的介入)され児童虐待防止登録に登録されるが、保釈
中であるにもかかわらず2007年1月26日に実母へ返される。それ以降もベビーPは傷害による原
因で入院しており、2007年6月5日、再び逮捕される。保健訪問員、警察児童虐待防止チーム、
ソーシャルワーカー、チャイルドマインダーがベビーPと接触をもち、故意による虐待と思われ
る証拠を確認する。6月29日、15歳の家出少女と一緒にJason Owen(36歳)が母親と同居する。ベ
ビーPの家族は、母親、ボーイフレンド(パートナー、32歳)、Owen(36歳)、家出少女(15歳)と
いう複雑な構成になる。7月10日、警察はベビーPの傷害に関して「故意による傷害と思われる
が断定はできない」と結論づけた。8月1日、ベビーPは病院(St Anne's hospital)で小児科医
(Sabah al-Zayyat)の診察を受ける。この時、ベビーPは肋骨及び背骨の骨折による下半身の
痺れ・麻痺がみられたはずである。しかし、診察した小児科医は「精密検査の必要なし」(虐待
を疑う根拠はなし)と診断する。2日、警察はこれ以上調査を行わないことを母親に通告する。
2007年8月3日、病院(North Middlesex University Hospital)に運び込まれたベビーPは正午過
ぎ、死亡が確認された。
③ラミング報告書と政府の対応:
ラミング報告書の特徴は次の2点を提起したことにある。a内閣府に全国
児童虐待防止対策本部(National Safeguarding Delivery Unit)を設置し、その指揮の下
で政府も自治体も児童虐待防止に明確な優先順位を与えること。児童虐待防止対策予算を計
上し「全国一律の適切な水準の投資」を実現すること(自治体が予算の効率的削減を強い
られ、児童虐待防止予算が流用されてしまう危険がある)。児童虐待防止に関連する(児童)ソ
ーシャルワーカー、保健訪問員、警察の予算削減が顕著である。bソーシャ
ルワーク専門職は「資源の不足、膨大なケース担当量、不十分な教育研修、粗末なスーパーヴ
ィジョン、士気の低下」という悪循環に見舞われ、「定足数維持及び欠員補充」の危機
という深刻な問題を抱えており、早急の対応を必要とすること。「複雑で膨大な数のチェック
リスト表の確認によるアセスメント」「プロセスとタイムスケジュールに焦点が合わされた達
成指標」「ITシステムの情報入力に費やされる膨大な時間」などは、子どもや家族と接触する
時間を奪い、士気の低下とともに離職者を増やしリクルートができない状況にある。児童大臣
Ballは基本的にラミング報告書の勧告を受け入れた。但し、aの「児童虐待
防止対策予算の計上」という「財源の縛り」に関しては拒否した。bのソー
シャルワーク対策に関しては、質の高い(有資格熟練各ソーシャルワーカーをリクルートする
ために5800万ポンドの投資を組んだ(2年間で1億900万ポンドに上昇)。
④政府の児童社会サービス改革の展開:ブラウン首相は2007年6月、児童・学校・
家族省(DCSF)を新設し初代大臣にBallを任命した。早速彼は12月に『児童プラン:明るい未
来を創造するために』(The Children's Plan:Building Brighter Futures)を発表し、2020年
までの政府の姿勢を明らかにした。『児童プラン』は基礎学力(読み書き)の向上、反社会的
行為の予防、児童貧困の克服を目的とする。親子が最もアクセスしやすい学校を拠点にして
様々プロジェクトをコーディネートする。つまり、最も脆弱な子どもを早期に発見予防すると
同時に、子どもの教育格差をもたらさないよう親業支援を行い、子どもの潜在能力を開花させ
る。「早期予防介入」→「親業支援」→「社会的排除(児童貧困)の克服」は政府の基本姿勢
である(Every Child Matters:ECM)。このような教育と福祉の接近は、自治体の教育部と社
会福祉部(児童社会ケア)を統合した児童サービス部(Department of Children's Services)の新
設をもたらした。しかし、児童サービス部長の75%が教育関係者であるように、児童社会サー
ビスの財源配分は学校を中心とする教育関連サービスに重点がおかれている。児童ソーシャル
ワークは、育成される子(looked after:ハイリスクをもつ子ども)に限定/選別されている。
家族支援の強調はシーボーム改革を思い起こさせるが、普遍的な予防介入を担う専門職は教育
や保健医療関係者(保健訪問員や助産師など)に移りつつある。児童ソーシャルワークは、
a児童虐待防止の優先順位(財源的裏づけ)が政府・自治体ともに曖昧で、さらに
b普遍的な早期予防介入は教育と保健医療が中心となり、ソーシャルワークへの財源
投資が縮小されてゆく。そしてc児童(虐待防止)ソーシャルワークは、マ
ニュアル遵守、詳細なアセスメント、ITへの情報入力に集中し、子ども(家族)と接触する時間
が失われる。それは士気の低下と離職を助長する。これらの問題がベビーP事件の背景にあっ
た。