脱家族をめぐる社会学的説明を再考する
-日本の障害者解放運動の歴史に定位して-
○ 筑波大学 堀 智久 (会員番号6122)
キーワード: 《脱家族》 《障害者解放運動》 《優生思想》
近年、障害児者福祉や家族社会学、障害学等の諸領域において、障害児者家族に焦点化した実証研究がさかんである。
その多くは、家族成員、とりわけ、母親の介護負担や療育負担の過重さを明らかにするとともに、これによって生ずる
母親の生活困難やストレス、あるいは家族成員間の摩擦や対立、不和等を浮き彫りにしてきた。
一方で、社会学的な観点からは、障害児者家族内部に生起する抑圧性に焦点化した実証研究は、日本の障害者解放運動
で提起された脱家族の主張を読み解く試みとして始められる。とりわけ、1980年代後半以降、後述する近代家族論や
ラベリング論等の視座から、すなわち、母親の介護義務や療育義務等を自明視しない、あるいは世間の偏見に目を向
けるアプローチによって、日本の障害者解放運動において脱家族が主張された必然性や構造的要因が説明されてきた
(要田 [1986]1999; 岡原 [1990]1995; 石川 1995; 春日 2001; 土屋 2002; 中根 2006; 藤原 2006等)。そして、
今日のように、障害児者家族研究が一定程度蓄積され議論の深まりを見せている時期にあって、脱家族をめぐる社会
学的説明が立脚する理論的視座やそれゆえの限界性を明らかにすることは、社会学的アプローチの切れ味を検証する
意味でも欠かせない作業となっている。
本報告では、脱家族をめぐる社会学的説明が立脚する理論的視座を整理し、またそれらの理論的視座の限界性を明
らかにすることを目的とする。具体的には、脱家族の主張をめぐって、これまでいかなる社会学的説明が試みられて
きたのかを確認し、また日本の障害者解放運動において脱家族が主張された歴史的文脈に定位することから、これら
の社会学的説明が取りこぼしてきた脱家族の主張の含意を浮き彫りにする。
まず、4-1では、障害児者家族内部に生起する抑圧性を読み解く試みとして、近代家族論を援用した説明とラベリ ング論を援用した説明があり、前者は抑圧性の要因を近代家族の特性に、後者はレッテル付与を行う周囲の偏見に求 めていることを確認する。次に、4-2では、脱家族の主張が、われわれの内なる優生思想を批判する文脈においてな されていることを確認し、他方で、障害者解放運動において、われわれが障害者の障害に対する否定的な契機を有し てしまうこととは別に、障害をもって生きることそれ自体は肯定されてよいことが主張されてきたことを明らかにする。
3.倫理的配慮本報告は、日本社会福祉学会の研究倫理指針に沿って執筆しており、問題はない。
4.研 究 結 果4-1.脱家族を読み解く試み――近代家族論と逸脱のラベリング論
近代家族論を援用した説明は、基本的に障害児者家族内部に生起する抑圧性の要因を、近代家族の特性である
愛情規範(と家族介護の結びつき)に求めており、他方では、「社会的機能としての再生産労働[=家族介護]と
愛情規範との結合を切断することから……適度な距離をとりつつ、まったくの他者を思いやるやり方と同様、お互
いを思う[家族成員間の]関係性」(土屋 2002: 226-7)を構想する。これに対して、ラベリング論を援用した説
明は、障害児者家族内部に生起する抑圧性の要因を、レッテル付与を行う周囲の偏見に求めており、障害をもつ子
どもの母親を取りまく周囲の偏見の除去、たとえば、「医療関係者に対する専門職教育の改善や、障害児の『親戚』
に対する人権啓発プログラムの必要性など、保健福祉における制度や実践の改革」(杉野 2007: 225)が、有効な
打開策となり得ることを示唆している。
4-2.障害者解放運動における脱家族の含意――拭い難い優生思想と障害者の存在の肯定
日本の障害者解放運動において脱家族が主張された歴史的文脈に定位した理解、すなわち、優生思想への批判の
一部として脱家族の主張を位置づける理解は、これまでの脱家族の主張を読み解く社会学的説明に対しても再考を
促す。たとえば、青い芝の会神奈川県連合会の横塚晃一(1975)は、障害児者家族内部に生起する抑圧性の社会的
要因のみならず、われわれ一人ひとりの心の内面に存在する優生思想をも問題にし、それは不変なもの、けっして
なくなることはない人間の本質であることを指摘する。この点で、彼らの主張に従えば、脱家族をめぐる社会学的
説明は、親の子どもの障害への否定的なまなざしを強化・増幅する社会的契機を特定する理論的視座であって、き
わめて拭い難いものとして存在する親の優生思想それ自体を対象化するものではない。
一方で、彼らは、われわれの優生思想がきわめて拭い難いものとして存在することを認めながらも、これとは別
に、障害をもって生きることそれ自体は否定されるべきではないことを主張してきた。たとえば、1972年の優生
保護法改正の反対運動では、「[障害者の]生き方の『幸』『不幸』は、およそ他人の言及すべき性質のものでは
ない筈です。まして『不良な子孫』と言う名で胎内から抹殺し、しかもそれに『障害者の幸せ』なる大義名分を付
ける健全者のエゴイズムは断じて許せないのです」(青い芝の会神奈川県連合会 1972: 3)として、「障害者は不
幸」と言って憚らない政策側の対応を批判している。すなわち、このことは、親の優生思想の拭い難さ、あるいは
それを強化・増幅する社会的契機とは別に、つまり、それとは独立の現象として、親たちが、いかにして障害者の
視点から障害を受けとめ、その存在を肯定するに至るのかを主題化する必要があることを示唆している。